2020年2月27日木曜日

マイ・フェアレディ。


日産のスポーツカー、フェアレディに一時乗っていたことがある。スタイル優先なので、使い勝手は少々犠牲になっていたけれども、運転し始めてしまえば快適にドライヴ出来るクルマだった。よく遠乗りをしたように記憶している。
高速道路の追い越し車線を少しスピードを上げて走って行くと、ほとんどの先行車が道を譲ってくれた。名前とは裏腹に、ちょっと凄みの利いた顔をしていたもんな。

さて、今回のフェアレディは、クルマのフェアレディではなくて映画の方。じゃ、なんでクルマの話を持ち出すんだと不審にお感じになる向きもあるとは思うけれども、そもそもクルマのフェアレディは、この映画(正確には映画の前に上映されていた(映画のもととなった)ミュージカル)から取られたものなのだ。
クルマに乗っているときにはそんなネーミングの由来なんてこれっぽっちも知らなかったけれども、あれから30年近くたった今、1964年公開のこの映画を見ていろいろ感銘を受けた部分も多いので、備忘録的に記しておこうと思う。

この映画の第一のインプレッションは(見る前からそうだったけれども)、名女優のオードリー・ヘップバーンが主演を張っているということ。あまり映画に精通しているとはいえない自分は、主演男優のレックス・ハリソンのことは知らなかった(ごめんなさい)。
ストーリーはシンプルで、名もないちょっぴり粗野な花売りの娘(21歳の設定のイライザを35歳のヘップパーンが演じるには、さすがに無理があったと思う)を、言語学の教授(ハリソン)が教養やマナーなどを仕込んで短時間で一流のレディに仕立て上げるというもの。紆余曲折はあるけれども、どうにかイライザは少々過酷なスパルタ教育をクリアして、立派なレディになる。そして二人はいい感じで次のステップへ・・・という映画好きには一番望ましいエンディングで結ばれている。

この映画のヘップバーンは、この映画の価値の多くを担っていたように思う。名作「ローマの休日」でスターダムに上り詰めて11年、すでに円熟と言っても言い過ぎではないくらいにキャリアを積み、演技の幅も存分に広がっていた。残念ながらアカデミーショーの8部門で栄冠に輝きながら、ヘップバーンはなぜか主演女優賞のノミネートさえ叶わなかった。それでもこの映画にはヘップバーンの存在は不可欠と言うほかはないと思うし、誰でもそう感じることだろう。そのくらいに“はまり役”を見事に演じたヘップバーンが、強く印象に残った。
一方、「君住む街かど」はじめ、素晴らしい映画音楽がちりばめられているのもこのマイ・フェアレディの魅力的な側面だ。古き良き時代のラヴ・ソングが、やはりこの古き良き時代の名画に花を添えている。見れば音楽の総指揮はアンドレ・プレヴィンが務めている。さすが・・・!と膝を叩いてしまった。

このマイ・フェアレディを観たのは、実は同じ町内に住む方の自宅シアターだ。AVに精通した彼は、ちょっとしたスピーカーだったら自作してしまうというマニアだ。ターンテーブルのプレーヤーが2台もあり、もちろんいわゆるLPのアルバムも何百枚も所蔵している。当然のことながら、音楽鑑賞や映画鑑賞のための設備が、贅沢に取り揃えられている点は、何度お邪魔してもびっくりするほどだ。いつも彼とは時間が合わなくてすれ違ってしまうんだけれども、今回のコロナウィルスによる騒動で、ウチはキャンセルの続出。連休も暇になり、ウィークエンドに彼のお宅に長々とお邪魔出来ることになった。キャンセルは本当に参ってしまうけれども、マイ・フェアレディを見ることができたのは、とても良かった。映画鑑賞をお誘いくださった彼には感謝しかない。

案外いまだに見ていない映画(中でも名画)は沢山あるし、また見てみたい作品もたくさんある。例えばソフィア・ローレンの「ひまわり」とかヘップバーンの「ティファニーで朝食を」。
高価な何かを買ったり、美味しいものを食べることも贅沢だけれども、名画を観たり名著を読んだりすることもまた、贅沢の極みと言えそうだ。そしていましばらくは、そんなことが許されるくらいに時間を持て余しそうだ・・・。

2020年2月15日土曜日

北国が故郷だったら・・・。


愛知県名古屋市に生まれて、幼少の頃三河へ引っ越してかれこれ40年近くも暮らした。正直名古屋で暮らしたことは、ほとんど記憶に残っていないので、僕にとって故郷は三河(岡崎市)だ。
美瑛に来て、はや14年目になる。すっかり慣れたと言えばそうだけれども、子どもの頃から長年暮らした岡崎のことは忘れることはない。例えば夏の夜、美瑛で上がる花火を見ながら故郷の夜空を照らす大花火大会のことを思い出す。懐かしくて、かけがえのない故郷の記憶だ。


昨日旭川市の「冬まつり」に出かけた。いつしか少し過疎の始まった北海道の小さな町に暮らしていると、旭川は大都会だ(人口35万人)。駅から買物公園通りに展示される美しい氷の彫刻を眺めながら、旭橋のたもとの冬まつり広場に向かう。広場に近づくといよいよ人が多くなって、小さい子供たちがお祭りのお店であれこれ買ってもらった戦利品を抱えているのを見るのも楽しい。
時折3、4歳くらいのちびっこが、そりに乗せられて親御さんに引かれていく。たいていはもう一人乳飲み子がいたりして、親御さんも大変だからそりは助かるだろう。そりに乗った子ども(お兄ちゃんだったりお姉ちゃんだったり)は、手に自分と同じくらいの大きな綿あめの袋を抱いている。小さな子供はみんな着ぐるみみたいな冬服を着せられて、どの子も可愛い。そんな子がそりに乗って、必死に綿あめの袋にしがみついていて、ますます可愛く見えてしまう。


北国の子供たちは、当たり前だけれどもやがて大きくなって東京や大阪の学校に進学したり、就職することになる場合もあるだろう。僕が初めて美瑛で迎えた冬、厳しい寒さのイメージが頭にこびりついて、無用な心配ばかりしていた。でもって、失敗して家の配管凍らせたこともあったな・・・。
で、北国北海道で育った子たちが、東京や大阪で迎える冬ってどんなんだろう?雪がないのはいいなぁと思うんだろうか?雪はねしたり、ブーツや長靴のお世話にならなくて済むことが、楽だなぁと感じるのかもしれない。でもきっと、2年目か3年目の冬に、物足りないと思うような気がする。あるべき雪がない、来るべき凛とした寒さがない。北海道は季節感と言う点ではすごくダイナミックなのだから!
いや、むしろ彼らが強く思い知るのは夏の蒸し暑さだろうか。美瑛(や旭川)だって、年に何度か30℃を超える日がある。愛知県の夏を思い出す、逃げ場のない暑さ。でも、湿気は全然ない。美瑛の夏は、夕方になるともう暑さはお終いで、深夜から早朝にかけて20℃前後まで気温が下がる。本州の熱帯夜は、こんな生やさしい夜じゃない。しかも来る日も来る日も暑い。もしかしたら東南アジアより暑くて寝苦しいかもしれない。

と、また着ぐるみを着た可愛い子供たちを眺めている。彼らは雪で寒いなんてぐずつかない。氷点下20℃でも、元気に遊んでいる。暮らしてみると、温度だけはものすごく低い冬も、そして爽やかでからっとした夏も暮らしやすいと思う。旭川市でも、近年は少しずつ人口減少が始まっているらしい。もちろん子供たちがたくさんいてくれたらいいんだけど、都会から移り住んで来てくれてもいいと思う。
ちょっぴり雪道の運転は大変だけれども、それでもそれにおつりが十分来るくらいにいいことがいっぱいある。