2025年5月22日木曜日

45年前にタイムスリップする、オロロンライン。

 大学3年生の夏、希望者、私も含めて3人は、真夏の旭川にアルバイトに来ていた。場所は林産試験場。今から45年も前のことになる。毎夏私の通った大学の、とある学科から、定例的にアルバイト要員を派遣することが習わしとなっていたようで、希望すれば数名を受け入れてくれた。先輩が就職しており、たぶん活躍されていたのだと思う(後に、この施設の所長になられたと聞き及んだ)。

大学は静岡市にあって、そこから遥か彼方の北海道旭川市にアルバイトに行くとなれば、普通は”大丈夫かな?”と諸々のことが気になるが、旅費はアルバイト代で何とかなる点、試験場の寮が利用でき、3食を賄ってもらえる点、勤務時間以外は全く拘束されない点などに目がくらみ、思い切って挙手をしたのがつい先日のことのようだ。

いざ、行くと決まってからは着替えなどのささやかな荷造りを済ませ、3人で私のクルマに乗り込むこととして、旭川までのルートを市販の地図で(ネットのマップなんてあるはずもなく)確認した。道中は、宿泊施設は利用せず、ひたすら交代制で運転するもの、地図見ながらナビするもの、寝るものの役割分担で強行した。3人のうち一人は免許取り立てだったが、何しろ強行軍なので時折運転をお願いせざるを得ず、結果怖い思いも数度あったけれども、運よく事故には至らなかった。一番のピンチは青函連絡船に乗る時にやって来た。ちょっと青森港までの時間配分に読みの甘さがあり、青函連絡船の最終便に間に合うかどうか、かなりぎりぎりのタイミングになっていたと思う。運転を車の持ち主である僕が担い、かなり速度違反をしつつ、無理な追い越しを何度もして30分ほど巻き戻して青森港に着いたのは4時くらいではなかっただろうか・・・。ところが無知な私たちに厳しい現実が突き付けられる。連絡船の乗船は予約が基本で、特にクルマは予約で概ね満車であり、載せてもらえる可能性がほとんど無いことがわかった。

しかし、それでは困る。今夜北海道に上陸し、明日中には旭川市まで着いていなくてはならない。明後日からは勤務なのだ。まぁ無知丸出しの僕たちは、次善の策などの持ち合わせもなく、翌日最早の船に滑り込んで、函館から今まで以上に飛ばすか・・・というくらいしか代案が無かった。当時は高速道路は皆無だったので、函館から旭川までは10時間くらいかかったと思う。

ところがどういう風の吹き回しか、乗船予定のクルマに一定数のキャンセルが出たらしく、希望すれば最終便に乗せてもらえることが判明。あまりの嬉しさに、青森港で学生としてはかなり贅沢なまぐろ丼をかき込んで、お腹も気持ちも満タンでフェリーに乗り込んだ。そこから先はほとんど記憶が無い。次の記憶のページには、試験場で勤務する自分たちの事しか残っていないのだ・・・。

当時、林産試験場は旭川の市街地にあって(旭川市緑町)、古い庁舎が広い敷地に点在し、合板の暴露試験や木材の破砕機によるチップのサイズを測ったりしていたと記憶する。そこで月曜8時から土曜の正午まで勤務し、土曜の午後から翌週月曜日の朝までが、待ちわびた自由時間だった。

初めの1週間は、大人しく過ごした。歓迎会なんかもやってもらって、終業後の5時からソフトボールの試合もあったりした。最初の週末は慣れていない旭川市街の散策に出かけたんだと思う。札幌よりもまだ果ての旭川市は、当時45万人くらいだった静岡市(清水市との合併前)の繁華街と比べても遜色ない賑わいだった。日本で最初の歩行者天国なども展開され、出来たばかりの旭川西武百貨店は、ものすごい賑わいを見せていた。

そして、愛知・静岡で暮らした僕らにとって、真夏の旭川はあまりにも爽やかで過ごしやすかった。特に深夜から早朝にかけて、肌寒いと思えるほどの気温と湿度の低さには驚いたものだ。寮長の奥さんが「寒くはないかい」と心配してくれたのも、納得がいくところだった。


さて、今回のお題のオロロンルートにやっと触れようと思う。2週目の週末は、屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖を周った。安いユースホステルを予約し、ごった返す北海道の真夏の観光地で、旅行気分を味わった。そして、3回目の週末、僕らは土曜の正午と共にお昼ご飯をかき込み、稚内へと向かったのだ。日本の最北端に行っておきたい。ただ単にそれだけの動機だった。旭川を発って(たぶん深川経由で)留萌に行き、そこから海岸線をひたすら北上した。当時その道をオロロン街道と言ったかどうかは記憶が無い。

当時の僕の愛車は、8年落ちくらいのカリーナGTだった。1,600c.c.ではあるものの、当時は珍しいDOHC車だった。学生が乗るには少しばかり値が張ったが、クルマで飛ばして走ることが何より好きだった僕は、その点は厭わなかった。その愛車を駆って、北海道の海岸線をハイスピードで北上する。日が暮れる前に稚内まで行きたかった。

結構なスピードで飛ばしているにもかかわらず、出たばかりの真新しいブルーバード・ターボ(910型)が僕らを抜き去って行った。さらにアクセルペダルを踏みこんで、ブルーバードを追った。北上する海岸線の国道232号線は、左に日本海が広がり右側は緩やかな緑に覆われた丘が、果てしなく続いていた。青い海と青い空、そしてどこまでも続く道と緑の丘。まるで今で言ったらジブリの世界のような、誰にもある記憶の一部だけど、それが果てしなく続く非日常感は、僕らが最果ての地北海道にいる実感を深く刻み込んだ。ブルーバードはものすごく早かったけれども、何とかついていくことができた。そうしてたぶん、1時間近くも海岸線の国道を古いカリーナGTはブルーバードを追っていた。


あれから45年も経つ。僕はあの頃と違い、66歳になった。そしてあの日と同じように国道232号線を飛ばしながら、大海原と果て無く続く道と緑の丘を眺めた。なんて変わらない風景なんだろう・・・?またあの時と同じ赤い910型ブルーバードが追い越してきそうな気がする。いろいろな・・・もう数えきれないほどたくさんのことを忘れてしまったけれども、あの時この道を古いクルマのハンドルを握ってブルーバードに追いすがった記憶は、なぜかぴたりとフォーカスが合ったままだ。

随分と45年前の記憶に浸りきってしまった・・・。せっかく今日行って来たのだから、今日の出来事をメモとして記しておこう。

美瑛から留萌まで、およそ1時間40分ほど。深川(深川西IC)から留萌まで高速道路が利用できる(無料)。留萌から北上して小平の鬼鹿港(おにしかこう)にあるすみれ食堂は行く価値あり。今回はさらに北上し苫前を越えて羽幌まで行った。羽幌の渋谷水産直売店の食堂は素晴らしかった。えび(甘エビ)が特産で春先から今頃までが旬。今日はうに丼をいただいたが、人生で最高のうに丼だった。うにの新鮮さ、ボリューム、そして味わい深さは白眉。極めつけは価格(2025年5月で2,200円)。いつかうにと言えばの積丹で食べてみたいが、ここ羽幌のうに丼はリピートしたい!

留萌から海沿いの国道232号線を北上しほどなくすると、留萌灯台がある。なかなか絵になる灯台だ。灯台までクルマで上がる道を運よく探し当てた。これっぽっちも案内(看板や表示)がないので、知っていないとなかなかたどり着けないのではないかな(Google Mapにも、道路は記されていない)。日本海も留萌市も一望できて、寄る価値あり。アプローチの案内は皆無だが、不思議なことに灯台に着くと説明看板などはしっかりある。

帰りに深川市内にて速度違反で警察に捕まってしまった・・・。深川市内は過疎化が進み、商店街でもシャッターを下ろしている店舗が多く「こんなところだと、ネズミ捕りも無さそうだな」なんて話していた矢先の事でした。50km制限の道路を78kmで走行と記録され、減点3、罰金18,000円を課されました。高額納税者になってしまったよ(涙)。悲しいかな、苦節13年で2022年11月に手に入れたゴールド免許は、1期(5年)で失うことに・・・!


2025年4月29日火曜日

43年ぶりの同窓会、そして東京九段へ_その2。

 同窓会で貴重な時間を過ごした翌日、午前中は同窓生の一人にお相手いただき、懐かしい静岡周辺の街並みを、彼の愛車に乗せてもらって満喫した。車は最新のレンジローバー・イヴォーグ。車好きの彼だけあって、極めて良いセンスをしている♬

焼津との境の大崩れ海岸にあるカフェ(当時は”かもめ館”と言う名だった)は、改名して”ダダリ”になっていた。残念ながら土日のみの営業で、月曜日に押しかけた我々は、入店の機会を逸してしまった。半分の目的はかなわなかったものの、かもめ館へと続く海岸線の道をドライヴできたのは本当に良かった。懐かしさがこみ上げた。その後清水へ向けて走り、シラスと旬の桜エビをかき揚げで食べさせてくれるお店に滑り込んで、昼過ぎに静岡駅で別れた。再会を誓い合ったのは言うまでもない。途中富士山の雄姿に出会えたことも、記憶に残った。

静岡を後にして、東京へ向かう。実は今回の同窓会に合わせて、せっかくなのでもうひとつ旅の目的を用意しておいた。それは東京九段の靖国神社への参拝だ。初めに記しておくけれども、僕は右翼でも無いし、第二次大戦参戦の大いなる支持者でももちろんない。昭和天皇をこよなく崇拝するほど知識も無ければ、靖国神社が戦時に執り行ったと言う合祀にも詳しくはない。

けれども、そこには第二次大戦で散った、大勢の私たち日本人(主に軍人)の亡骸が祀られているということは事実だろう。A級戦犯も同様に眠るため、ある種の思想家や海外のいろいろな視線は、否定的にとらえる向きもあると聞き及んでいる。ではあるかもしれないけど、年端も行かない私たちの先人が、国家権力の名のもとに貴重な夥しい命を散らしてしまい、その人たちの多くを弔ったのが(今や神社だから、弔うはヘンかな?)靖国神社だと認識する。



ここ最近メディア(特にNHKのテレビ番組)で、第二次大戦の映像を見る機会が増えている。戦局は真珠湾攻撃から展開し、ミッドウェー海戦で守勢に封じられていくわけだけれども、連綿と続く歴史の流れからすれば、それよりはるか以前の日清戦争から、すでに第二次大戦突入の引き金を引いていたとも考えられる。富国強兵にひた走り、列強のアジア全土の植民地化に抵抗し、石油や鉄鉱石などの富国強兵の生命線ともいうべき資源確保狂騒に奔走した大日本帝国が、やがては列強と刃を交えることになるのは、他人事のように記せば「必然だった」のかもしれない。実のところ、昭和15年当時に時計を巻き戻すことができたとして、あの時日本はどう振舞い、どう生き延びれば良かったのだろう・・・?

私が高校時代に無条件で信じ切っていた新聞各社は、あまりにも身勝手だ。もちろん当時、お国の提灯記事を書かされていた向きも否定はしないが、戦争を肯定し、煽り、戦局を誇大に勝ち戦と喧伝し、発行部数を稼ぎまくっていたのは紛れもない事実だ。しかも終戦とともに筆致は逆転し、舌の根も乾かぬうちに戦争へ向かった国の判断に鋭く批判を繰り返した。ペンは剣より強し、が聞いて呆れる。儲けるために戦局を捻じ曲げて報じ、それを国家権力の圧力だと逃げ、果てはGHQの後ろ盾でも頼りに、自分の書いたことをすべて棚上げして戦後の価値観に(占領下の価値観に)塗り替えていく。

僕自身高校から大学を卒業するまでは、大日本帝国の歩んだ過ちを胸に刻み、アジア諸国に及ぼした傷を恥じていた。しかし、時は流れて平成になり令和になって、当時の事実が少しずつ詳らかになるこの頃、その真実についてもう少し知っておくべきではないかと思うようになっている。


そもそもいわゆる戦後処理の名のもとに、誤ったことを正す論調として軍国主義の象徴ともいえる靖国神社批判があったことは事実だと思う。僕自身もそれは薄々感じていたし、靖国を支持し参拝する人々の気持ちを理解できないでいた。政府要人の参拝も、結局のところ票集めにつながる行為だろうと決めつけていた。けれども、一部の狂信的な集団を除いても、絶えることの無い靖国参拝はどういう理由だろうと少しずつ疑問が膨らむ。

おりしもNHKで放映される「映像の世紀(バタフライ・エフェクト)」において、様々なテーマで映像を通した現実が放映されるのを見るにつけ、先の大戦で散った多くの軍人が、皆軍国主義に洗脳され、徒にアジア周辺国を隷属させていったわけではないと知ってしまう・・・。加えて中近東ではイギリスのスパイが暗躍し、たくさんのアラブ国家に調子のいい約束を吹聴して、次々に石油権益をだまし取って行く様も知ることとなった。明治から大正へ、そして激動の昭和に至り、あまりにも知らないことが多すぎる自分にとって、靖国神社に実際に行ってみて、そのあり様と展示などをつぶさに見てみたいと思う気持ちがくすぶるようになった。


靖国神社に行ったその日は、4月中旬の穏やかな晴れ間の広がる日だった。思いのほか広い境内は、3つの鳥居のその奥に本殿がある。老若男女が、そして予想だにしなかったけれども金髪の子女や肌の黒褐色の人までもが、神社の境内に集っていた。私と家内は鳥居をくぐるごとに頭を下げ、長い境内の道を小さいながらスーツケースを牽いて本殿で手を合わせた。靖国神社のあり様や、その存在意義について、ここで僕自身がどれだけ記載してもごく極端な一部を切り取るようなことになるだけだと思うので、これ以上は何も書けない。靖国神社とは直接関係が無いかもしれないけれども、東京裁判の11人の判事の一人、ラダ・ビノード・パール判事について、もし時間と気持ちに余裕があれば検索いただくのはどうだろう・・・。ただ一人、東京裁判において全25人の被告に無罪判決を下した判事の主張は、知るに値する。もちろん彼が日本軍の行った残虐行為に対して厳しい指摘をしているのは事実だが、敗戦国日本の軍を指揮していた中枢の人物に対して無罪と主張したことは(もちろん裁判結果には微塵も反映されなかったわけだけれども)、今になって驚くとともに、改めて深い無知を恥じるばかりだ。


靖国神社で2時間余りの時間を割いた後、僕らは千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも足を運んだ。この墓苑は靖国神社と違い、現在は天皇陛下や総理大臣が慰霊祭に公式に訪れる、靖国神社とは違う場所だ。言ってみれば第二次大戦の公的な無縁仏とでも言えばいいだろうか?

ここは、戦後まもなくアジアの国々や南西諸島の激戦地から戻った大勢の遺骨を弔う場所として日本政府が用意した場所だ。靖国神社が軍人を祀るのに対して、ここは軍人・民間人を問わず、引き取り手のいない(わからない)遺骨を納める無縁仏だ。

何となく、靖国神社に行っただけでは片手落ちのような気がして、この戦没者墓苑にもどうしても行っておきたかった自分としては、願いが叶った。

今を生きる日本人は、多かれ少なかれ第二次大戦の負い目みたいなものを胸に生きていると思う。もちろん私たちの先人が誤りを犯してしまったことは事実なのかもしれないけれども、先人のたどったその道のりの真実を知ることの意義は大きい。靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑を訪れて、やはり先の大戦参戦への判断は正しかったのかもしれない・・・、なんて思うようなことは少しもない。しかし、パール判事の説く、「正義は戦勝国にあると言うことに対する疑念」は、正直深まった。もしかしたら靖国と千鳥ヶ淵に行くことで、僕の胸の奥につかえる何かが少し解消するかも・・・と安易に抱いていた曖昧な予想は外れてしまったけれども、僅かばかりの真実を携えて北海道に戻ることができる。

九段界隈では欧米人や中国人や、たくさんの海外旅行者が行き交い、道には欧米のクルマがたくさん走っていた。靖国に眠る英霊や、千鳥ヶ淵に安置された遺影は、この九段のあり様を見て、どう思うのだろう・・・。今現在平和にみちるこの日本で、その平和を実現するために死に物狂いで生きた先人に思いを馳せないではいられない。


43年ぶりの同窓会、そして東京九段へ_その1。

 Facebookのメッセンジャーで連絡が来たのは、お正月を過ぎて間もない頃だった。アメリカ勤務の長かった大学時代の同窓生の一人が、退職して故郷に戻って来たとのこと。その彼の希望もあって久しぶりに同窓会を・・・という機運が高まった。前回はいつだっただろう?3,4年に1度くらいは集まっているものの、たまたま時間の合う5,6人程度で即興の寄り合いの場が持たれることはあったようだけれども、”同窓会”と銘打って全同窓生に声がかかるのは、たぶん10年ぶりくらいになるんじゃないかな?

幹事はみ~さんだ。彼女は地元(静岡)在住で、恩師とのコンタクトもスムーズと言うわけで、毎回アテにされている。話はとんとん拍子に進み、30名だった学科の仲間のうちなんと21名が集うことになった。1982年卒業の僕らにとって43年ぶりの同窓会になるわけだけれども、21人(参加率70%)ってどう考えてもすごいと思う。


日程が決まって、ほどなくフライトチケットを予約した。以外にも最寄りの旭川空港から羽田へ、JALで案外安くチケット入手できた(片道で7,600円ほど)ので助かる♬こうやって3か月も前に予定を入れることは滅多にないのだけど、決めてしまえば航空券は思いのほか安価に手に入るものなんだなぁと思う(逆に日程近づくと、すごく高くなりますよね)。

気が付けば同窓会開催の4月中旬になり、10:05発のフライトに向けて、出発した。快晴。空港までは20分足らずだけど、1時間前には行っていた方がいいような気がして8時半には家を出た。

空港についてあらためて思うのは、旭川空港の利便性だ。特段変わったことがあるわけじゃないんだけど、1日10便ほどしかない地方空港は、待たされることがほとんどないのでスムーズだ。メガ空港自慢のフードコートやお土産物売り場の充実は今一つかもしれないが(そんなに売り上げは望めないし)、空港ってこういう感じがいいよなぁといつも思う。都心には列車網が発達していて、空港は郊外にあればいいように思うんだよね。

快晴の旭川空港

さて、1時間ちょっとで羽田につき、空港内で軽くお昼を済ませて学生時代の想い出詰まる静岡へ新幹線で向かう。ここでちょっと見通しの甘さが露呈した。静岡って、のぞみはもちろん皆無で、ひかりも1時間に1本しか停まらない。なので各駅停車で次々追い越されっぱなしのこだまに乗る羽目になった。こだまも車両は700系で全然のぞみに見劣りするわけじゃないんだけど、静岡まで7駅ほどある停車駅で、ほぼ毎回1輌か2輌、追い越される(ので待ちが結構ある)。おりしも世の中リニア新幹線で沸く中、静岡県とJR東海の不仲は公然の秘密、静岡県ってこういうところでもちょっとした仕返しをされているのかな?と疑いたくなった。下記、少し古い記事ではあるが、ご参考まで。

https://toyokeizai.net/articles/-/209050

結局静岡に着いたのは14:50ほどで、会場には20分ほど遅れての参加になった。

学生時代にたまに出かけた海岸線の崖上のカフェ

午後3時からの同窓会は、お酒も入るからちょっと早いスタートだ。北海道美瑛町からの参加なので、遅れはご容赦いただいた。なんでもこの年になってもまだ勤めを継続中のメンバーが半分近くいるので、翌月曜日には出勤すると言う。ご苦労なことで・・・と思ってみたものの、自分も紛れもなくその一人だと気づかされた(翌日はお休みではあるけれども)。さすがに同窓会に出て来るだけあって、皆元気で65歳を超えているにしては若々しい。臨席くださった3人の恩師も80代半ばとは思えないほど矍鑠としていらした。幸い病気自慢、孫自慢の競い合いにはほとんどならず、実に楽しい時間を過ごした。会社をリタイアするもの、再雇用されて役職を失って働くもの、主婦、主夫、一応経営者・・・の同窓生の話は、聞き入ることが多い。このメンバーと初めて会った47年前、僕らはあまりにも無知で、傲慢で、そして等しく貧乏だった。

もちろんパソコンもスマホも、インターネットも無かった。恋したり、お酒を飲んだり、クルマに憧れたり、音楽に心酔したり、ちょっとだけ研究にも勤しんだり、忙しかった。なぜか皆が、仲が良かった。世間知らずなりに、お互いを認め合ってもいた。離れ離れになって43年、あらためて貴重な人脈だと思い知らされる。会社の同期とは、なかなかこういう人間関係を築きにくい。まごうことなきライバルに、おいそれと仕事の相談なんて出来るはずもない。時の流れと共にその関係は時に熾烈になるし、僅かなポストを争わざるを得ないケースが多い。結果多くの場合はいつしか上下関係ができる。誰もが知る、勤め人の現実がそこにはある。翻って同窓生はと言えば、極めて稀有な人間関係で、弱みも自慢もことさら何かを隠したり誇張したりする必要なく、あるがままにコミュニケートできる。まぁ受け狙いで”盛る”ことは多いが、おおむね本来の自分自身を知らぬ間に曝け出しているわけで、そのことがまったく苦にならない。時には親身になった助言をもらえたり、あるいはまっとうな𠮟責も受けるが、聞く側も素直に耳を傾けることができてしまう。


もしかすると、大学の同窓生と言うのはすごく幸運な人間関係を育むことができる「場」なのかもなぁと思う。僕らは子供時代から当然のように何度もふるいにかけられて、その末に大学のとある学科に行きついた。もちろん個人個人の個性はまったく似てはいないのだけど、少なくとも学力は似通っている。加えて各自の裕福度とかも、似ることが多い(僕らの場合、地方国立大学の当時はあまり人気のない学科で、こんなところに滑り込んでくる学生はバックグラウンドが似ているのだ)。そして当然のことながらほぼ同い年だ。

なんてことを思いながら、会は進み、いつしか3次会まで突入していた。いつになくたくさんお酒を飲んではいたけど、本当にいつになく眠り落ちることなく、際限なく話をした。体重が倍くらいになったものや、髪の毛が3分の1以下になったものもいると言うのに、全くの童心になって語り合うさまは、どう見ても学生時代のあいつだ。こんなに大勢の同窓生と共に時間を共有出来て、すごく楽しかった。ありがとう!

最後に恩師にも触れないではいられない。3人臨席くださった恩師のうちの2人は、僕自身の研究室の先生でもあられた。また余談ながら1人は私の仲人さんであるし、もう1人も式で祝辞をいただいた。

3人の恩師は、3人ともに俳優か何かであるかのように若々しくいらっしゃった。正直、86歳になられる2人の恩師は、私たちと20歳違いであるにもかかわらず、概ね同窓のような面持ちなのだ。先生稼業が比較的若々しくあると言うことは、まぁ一般的にそうなんじゃないかと思う。何しろ生徒(学生)を相手に日々暮らすわけで、どうしても若さを維持されるケースが多いように思う。でもいくらなんでも20年の差は果て無く大きいから、さすがに驚いてしまった。もう一人いらした恩師はわずかに5歳年上ながら、どう見ても我々よりお若くいらっしゃったし、相変わらずの頭の回転の早さに43年前を思い出さずにはいられなかった。

先生方にしてみれば、無知で傲慢で生意気な僕らをどうにか世のため人のためになるよう仕立てて送り出してくださった遠い過去が、今になってどう映るんだろうと気になった。

小・中学校と違い、大学で教鞭をとるとなると、学生との真剣勝負になることも少なくはない。もちろん勝負はやる前から答えは出てはいるものの、何しろ挑む学生は生意気で身の程を知らない。私たちも全く例外ではなかった。そしてそんな我々を相手に、面倒がるなど一切なく、正面から受け止めて、その上励まし、自信が付くように導いてくださった。あの4年間が無ければ、1人たりとも今の(43年たった現在の)我々は居ないと確信が持てる・・・、今になって振り返れば、そんな学生時代だったのだ。

願わくば、定期的に(毎年とか)同窓生とも恩師ともお会いして、旧交を温める時間を持てたら、これに勝ることはないのだが・・・、そんな楽しい時間が持てたことに感謝したい。


2025年3月22日土曜日

由緒あるホテルの閉館が、ちょっと寂しいです。

 お隣、富良野市の少しハイクラスな宿”富良野ホテル”が、営業停止になりました。経営の真相は知るすべもありませんが、経営を担っていた第一ホテルグループは建物等の賃貸契約を延長せず、この(2025年)2月末をもって営業終了となってしまいました。

富良野は美瑛と違って、夏以外にも冬季の繁忙期があり、宿泊施設を経営する環境は良いと思います。世界屈指と言ってもいい富良野スキー場を有し、富良野の雪質の良さも相まって、冬季の人気も非常に高いです。その点びえいは真冬の集客はこれと言った訴求ポイントが無いので、夏にしか繁忙期が無いのは経営的には痛いところです。

また、南富良野町のかなやま湖ログホテルラーチもこの秋10月をもっていったん営業終了し、鶴雅グループに売却する方向で内定している様子です。

富良野ホテルへは、3年ほど前に1度泊まりに行ったことがあります。ちょっと高級感あるホテルで(実際高かったし)、僕にとっては場違いな雰囲気でしたが、たまにはそんな雰囲気の中、学んでくることもあるだろうと出かけました。

もともと、大手企業の保養所でスタートした富良野ホテルは、会議室と言うかオープン・スペースのような空間が結構あって、無駄とも思えるし空間遣いが伸びやかでいいかな、とも感じました。ダイニングスペースも広々としていて、さすがこのクラス!ワインの品ぞろえもボルドーの5大シャトーを中心に、著名なものは一通り持っているようでした(それだけでも数百万・・・)。20室足らずの客室数でしたが、やや高額な価格設定として、うまくやっていらっしゃるように思えたのです。実際に僕が泊まったのはちょうど今頃、スキー場も終わりになる3月下旬だったと記憶しますが、5、6組のお客様が泊まっていたと記憶しています。


そんなことをつらつらと思い出していると、全国の地価の上昇率で、住宅地では富良野市が全国1位(31.3%/この1年で)というニュースが飛び込んできました。JR富良野駅からは離れた北の峰周辺がその対象らしく、少し前のニセコ(倶知安町)の後を追うような状況だと思います。

ニュースを少しだけ見た範囲ですが、その人気(上昇の原因)はほとんどが外国人需要によってもたらされているようです。そして、日本でも(ニュースでは世界屈指の)雪質のいいゲレンデ(富良野スキー場)がそれを大いに後押ししていると報じていました。

ってことは、富良野ホテルなんかは北の峰からは少し離れるにしても、富良野スキー場は目と鼻の先。立地的にはすごくいい環境だと思えてなりません。


しかしながら、僕自身も宿泊業の端くれとして感じるのは、この業界の経営の厳しさです。まだ記憶に新しい(と言いながら、ちょっと薄れて来たかも?)コロナ禍で、全ての宿泊施設は大打撃を受けました。飲食業には手厚い対応が政府からなされ、私たち宿泊業にもその恩恵は(飲食業には及ばないでしたが)もたされました。

もちろんその恩恵だけではとても2年半のコロナ禍を乗り切ることはできず、大多数の宿泊業者は、金融機関から大きな借り入れをしたはずです。当館もそうです。そして2023年頃からその返済が始まっているので、返済開始から概ね2年後の今(2025年3月)、どこの宿泊業者も返済に追われているのが現状です。

そこそこ集客力のある宿泊施設は回転資金がつながると思いますが、もともと初期費用も運転資金も結構な額を必要とするこの業界は、少しの集客の翳りで、瞬く間に資金ショートを起こしてしまいます。いくら富良野の地価が高騰するといえども、ライバル乱立するこの地で、ちょっとした経営の方針ミスが致命傷になりえます。

私の手元に、昨年の夏打たれた、富良野ホテルのA4サイズ1枚のPRパンフがあります。シニアソムリエと共に3つのワイナリーをめぐる富良野ホテルのスペシャルプラン・・・。正直魅力的な素敵なプランだな、と思ったものです。繁忙期(8月)ゆえ、また高額(1泊12万円)なため、参加には至りませんでしたが、僕自身もこんな企画はやってみたいとさえ思いました。

その富良野ホテルさんも廃業。華やかに地価高騰がニュースになる富良野ではあるけれども、ちょっと舞台裏をのぞいてしまうと、厳しい現実が待っていますよね。

お話は少し飛びますが、先日(今月初旬)、所用で小樽にでかけました。懇意にしている宿仲間が取ってくれたのは、ノイシュロス・小樽という老舗ホテル。正直外観はボロボロでネット上では幽霊が出る、という噂もあるようでしたが、料理は丁寧に作られていて非常に美味しかったし、お部屋も快適でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ホテルノイシュロス小樽

このホテル、1965年の"祝津観光ホテル天望閣"が前身。何度もの経営破綻やM&Aを経て今に至っています。泊まった印象は、お客様をとても大切にしていると言うこと。

想像を絶するほどの初期投資を必要とするホテルではありますが、こういった丁寧な接客を心がける快適な宿泊施設が、何とか生き延びていって欲しいと願わずにはいられません。と同時に、同じ業界に身を置く僕自身も、あらためてこの世界の厳しさを肌に感じないではいられませんでした。


2025年2月28日金曜日

F40型のBMW135ⅰに乗り換えます。

 今乗っているF20初期型のBMW135ⅰから、1つ新しいF40型の同モデルへ買い替えることにしました。F40型は4輪駆動車なのです。すぐ前に投稿した最新のF70型の一つ前のモデルです。

新たにやって来たF40型_135i

買い替える一番の理由は、何をおいても冬季はFRの駆動方式を持て余してしまうから・・・。まぁこれに尽きます。誤解されてしまうかもしれませんがFR(後輪駆動)のクルマ、大好きです。さらに言えば、運転していて非常に気持ちがいい♬ 

何ていうのかな、ドライヴフィールに、高級感があります(運転した感覚に、高級感も何もあるか?とおっしゃるなかれ。間違いなくFR車には高級感はありますよ!)。じゃあ、なんで持て余すのさ?ってなりますが、要は冬道、特にいったん融けた路面が急な低温下で凍り付いた(ブラックアイスバーン状態、なんて言います)路面だと、FR車は簡単にグリップを失って、どこに行くのか制御不能状態になってしまうのです。そんなことがこの2月だけでも3回もありました。隣町、上富良野町に買い物に行くときに、ちょっとお高そうなアウディに追われながら、下り坂の左コーナーでつるつると対向車線にはみ出し、あわわ、どこ行っちゃうんだ???と焦ったり、旭川に行く途中に国道の美瑛坂はたぶん凍っているだろうと1本裏側(東側)の道を行ったらそこも凍っていて、やっぱり下り坂で4輪ともグリップを失いました。あわや大クラッシュ・・・・と言う場面でしたが、幸い対向車はなく、30mほど滑ると路面が乾いてグリップを取り戻しました!

こんな有様じゃあ、遅かれ早かれ事故を起こすぞと。まぁ運よく(運だけで)12年半もの間FRのBMWを乗り続けてきました。幸いクラッシュはしませんでしたが、スタックしたことは3,4回では足らず、両手の指の数くらいはやっています。また、前輪のブレーキが凍結して、ロックしたまま走り出してしまい、しばらく走ってから動けなくなっちゃったことも毎冬4,5回は経験しました。

少しずつ経験を積んで、いろいろなトラブルを回避する(または起こらないような運転を心がける)ように努めては来ました。でもね・・・、あまりあれこれ悩まずにササっと出かけたい気分の時ってありますよね。逆に冬はFR車はダメだとあきらめて、ウチの他車(=スバルの4駆)ばかり使えば、ほどなくバッテリーは上がるし、所有する意味はあるのかってことになっちゃいます。

おりしも、懇意にしている宿のお仲間さんに言われたのは”立派な車庫借りてバッテリー外して冬の間は仕舞っておくか、4輪駆動車に買い替えるかしたら!”と。そうなんです、その通り。もう割り切って冬の間は乗らずにお蔵入りさせておくのか、普段使いできる4駆車に替えるのかの単純な2択です。

その単純な2択を前にしてもなお、私の未練がましい気持ちは消えません。エンジン縦置きに6気筒の3,000c.cエンジンを載せたF20型135ⅰは、それは気持ちよく走るのですよ・・・。

お世話になったF20型135i

それでモラトリアムのように愛車を真冬もちょっとだけと言いながら動かしては、怖い思いをする繰り返し。

そんな日々に決定的な出来事が起こります。1月初旬、お世話になっている旭川BMWさんから連絡が入り、見てもらいたいクルマがありますよと。

1. F40型の程度のいいクルマを下取りしました。

⇒ぜひ試乗しませんか。

2. 今の愛車はブレーキがそろそろ限界で、前2輪のディスク交換が必要。

⇒簡単に言ってくれますが、30万円に近い出費です。

さっそくお邪魔してみてみると、1.6万キロしか乗っていないクルマはピカピカ。モデルのグレードは同じで(135ⅰ)、4駆。エンジンは2,000c.cの4気筒になりましたがパワーは概ね同等(トルクは全く同じ)なので、大雑把に言えば4駆になっただけ。ぜひ試乗をと言うことで、促されるままに雪道をドライヴすると、なんと快適なことよ!!!あー、4駆のBMWもいいもんだなぁーと営業さんの思うつぼにはまったわけです。

実のところFRのBMWに乗っていたのは、やせ我慢の部分もありました。後部座席の居住性含むクルマのパッケージ的には圧倒的に不利なFR車を、敢えてその運転フィールを優先させて選んでいる、という自己満足感。さらには今やほとんど無くなってしまった気持ちのいい直列6気筒エンジン。3,000c.cは燃費面でも自動車税面でもコスト高ではあるけれども、それでもこのエンジンしかFR車は選べないから、というこだわり感。とまぁ、そんなミエに囲まれて乗る愛車は、やせ我慢と言いつつもホントに快適(冬以外は)で気分のいいものなのです。

本心では、いくら運転していて気持ちがいいと言ったって、4か月にも及ぶ冬になるたびに心臓が飛び出るような怖い思いをするクルマに、いつまでも乗っていられるわけじゃない、とわかっていました。そこへ飛び込んできた、旭川BMWの営業さんは、およそ全てのことが分かっていたのかもしれませんね。

時に、今回の愛車の乗り換えを機に、他にはどんな車に乗ってみたいかなぁーと少しネットをさまよってみました。一番しっくりくるのはレクサスLBXのモリゾーRRです。4駆でしかもマニュアル車。あのWRCを席巻するGRヤリスと同じエンジンを積んでいます。が、価格も800万円に迫ろうかと言う紛れもない超高級車。

元祖にあたるGRヤリスはどうかと言えば、さすがにレクサスの6掛け程度とは言うものの充分高額である上に3枚ドア。使い勝手は二の次どころか無視と言ってもいいくらいの「走り屋」仕様。やる気満々の時にはこの上ない相棒になってくれそうですが、時にはリラックスした気分で乗りたいケースには、どうしてもミスマッチになりそう。もちろんその価格は、クルマの性能から言ったら大いに抑えられているには違いないのですが、あまりに「走り」に徹したクルマに仕上がっているので、持て余しはしないかと気になります。

アウディの商品群も魅力的ですが、少しばかりお洒落過ぎているような気がします。オジさんの代表のような僕が乗るにはちょっと気が引ける。親戚筋のゴルフRは、これはこれで少々優等生過ぎて、イメージとしての面白みにちょっぴり欠ける・・・。なんて消去法で絞り込まれてくるのは、今回のBMW135ⅰなのかもしれません。
そのBMWも十分高額で、まったくもって背伸びをした買い物には違いないのですが、ディラーの担当営業さんが、あまりに頑張ってくれたので折れたっていう側面も!。

と、いつもにも増してまとまりのないお話になっちゃいましたが、無事、本日納車。替えたからには、大いに運転を楽しみたいです。自動運転になって欲しいなんて思ったことの無い僕にとって、運転すること自体が楽しみなのです。