2026年3月17日火曜日

春が近い・・・。

 暖かくなった。薪ストーヴに朝晩2回ずつ薪を燃やしていた季節が過ぎ、朝晩1回ずつになり、いよいよ夕方1度だけ燃やせば過ごせるこの頃だ。

この冬(12月から3月初旬)、思いのほかお客様に恵まれて、気が付けばもう3月中旬。例年1月後半から2月には5日間ほどお客様がいらっしゃらないタイミングがあって、美しい雪景色を眺めにカメラぶら下げて出かけていたのだが、この冬はそんな余裕なく過ぎてしまった。ありがたいには違いないけれども、もう少し真冬の美瑛の絶景を写しておきたかったな・・・。

そんな折、先日(3月10日)常連さんをお誘いして、スノーシューを履いて丘を上ってみた。もう丘は融雪剤の縞模様が描かれ、農家さんは春の農作業の準備を急ぐ様子が見て取れた。真っ白い丘風景はとても奇麗で大好きだけど、融雪剤の縞模様が描かれた初春の丘も、まばゆい3月の日の光の中で輝いて見える。あー、長く厳しい冬も終わるなぁと思うと、悪い気はしない。丘のわきの木々には、よく見れば小さな新芽らしい膨らみも見つけられる。その木々を次々と縫いながら飛びぬけてゆく小鳥たちも、心なしか春に浮かれているようだ。


それにしても、いつぶりだろう・・・、青い空が目に染みる。テレビを点けてもネットのニュースでも連日ミラノ五輪のニュースで溢れていた2週間ほど前、そしていよいよ始まったWBCの予選リーグとスポーツの祭典が目白押しで、真っ青な空を思いっきり眺めるのは随分久しぶりな気がした。名もない丘の除雪をしていない道をスノーシューで上り、360度広がる絶景を目にすると、やっぱりこの丘風景はあらためて素晴らしいなぁと感じないではいられない。


ここ最近、いわゆる名所(でもないんだけど、有名な場所)では観光客があふれ、近づくことさえ躊躇してしまうほどの混みようだ。中でも当館「丘のほとり」からほど近い”クリスマス・ツリーの木”は夥しい観光客の方たちで溢れ、おととしから交通整理の係員が4人がかりで対処するありさまだ。白髭の滝や、マイルドセブンの丘にも大勢の観光客が集中している冬の美瑛の今日この頃なのだ。大勢の観光客の方が来てくださるのはもちろん素晴らしいことなんだけれども、度を過ぎるとデメリットのほうが目立ち始めてしまう。オーバーツーリズム現象は、ちょっとしたきっかけで起きるし、いったん過剰な混みように陥ると容易には解消できない。なかなか”ちょうどよく”は行かないものだとつくづく思わされる。

一方では、素晴らしい景色なのに観光のお客様が全然来ない場所もたくさんある。うまくお客様の集中が解消できるといいのにと、いつも気になってしまうよね。もっともいつも貸し切りのような絶景の場所が混みあってしまうのかと思うと、それもできれば避けたいというのが本音だ。僕自身、わがままな気持ちがあることを否定できないですね・・・。


これから季節は一気に進む。毎年気持ちが置いてきぼりになってしまうこの時期、願わくば北海道の桜の名所にも足を運んでみたい。函館の五稜郭界隈が桜で染まる様子は圧巻だし、新日高町の二十間道路も見事な桜並木だ。

この地で暮らしていると、いつでも行けると思い込んでしまいがちだけれども、そういって未だに行っていないところも多い。この4月末には、1か所くらい桜吹雪を愛でに出かけよう♬


ノート・パソコンを購入しました。

 前回(2021年)は、15インチのノート・パソコン初挑戦で、なかなか使い勝手がいいことが判明。ではあるけどやはり、15インチでは叶わないこともいくつかあって

・持ち運びと言いう点で、携帯性に致命的に難あり。

・置き場所も、それなりに必要。

ということを、再認識した次第。もともとは私の加齢に伴って、画面の小ささによる視認性の悪さを問題視したわけだが、15インチのノート・パソコンと言うものを使ってみて、あらためて携帯性の重要性が身に染みた・・・。

ただし、携帯性を除外すれば、やはり大画面のノートは使っていて楽しい♪
ちょっと我慢して使っている、みたいな感覚は皆無。作業スペースもそれなりに必要になるから、使う時にはそれなりの準備が不可欠(カオスと化した我がデスクの上では使えない!)ではあるものの、準備を整えて作業開始すれば、快適な使用感が約束される。

でも・・・、やっぱり持ち運ぶ機会があるわけで、例えば2泊ほど留守にしなくちゃいけないちょっとした外出時、15インチを持っていくかと言えば、絶対にない。さすがにデカ過ぎて持って行く気にならないし、公共交通機関を利用しようものなら物理的にも困難を極める上、他のお客様の邪魔になるのは必至。

となると、携帯を使いこなせていない僕にとってやっぱり12~13インチのノート・パソコンって要るじゃん!というのが結論になっちゃう。3年前に背伸びして買った15インチのノートは、デスクトップで事足りると言えば、言えてしまうところがちょっと悲しい。


とにかく、携帯可能な(13インチ未満の)ノートがやはり必要と気づいて、現在(いまだに)騙しだまし使っているDell(2017年購入!)の後釜をマジで探すことになった。

Dellのノート、トータルバランスは悪くなくて、結構使いやすいと感じてはいるが、さすがに9年、あれこれ支障が出てくる。まず、まともにネット閲覧が難しくなった。超遅い。たぶん当時のCPU(それでもいちおうi7)の問題もあるし、メモリー(8GB)の量、質(と言うか、処理速度)も影響しているでしょうし、僕にはわからない領域の、OS以前の基本ソフトも関連しているはず。

そんなわけで、手ごろなサイズの使い勝手の良さそうなノートパソコンを探すことにしました。最近抱いている正直な思いは、どれ買っても大して変わらないんじゃないか・・・ということ。もちろんメーカーごとに品質基準の設定は異なるので、使っているうちにすぐに支障の出てくるメーカーもあるかもしれませんが、多分極端なケースは市場に淘汰されて行くはずだしね。加えて僕自身が、そんなに高度な要求をするユーザーではなくなってきているのも確か。

ってなると、あとは個人的な感情(好き嫌い)の問題で、いちおう国産メーカーを意識するものの、今まで使ってきた経験からDellとMicrosoftが候補かなぁと思う。パナソニックのレッツ・ノートもVAIOの製品も気になるけれども、どうも価格的にハードル高くしり込みしてしまう。Microsoftのパソコンは、Officeソフト付属のものも結構あり、ソフト込みで見てみるとコスパ最強と思しきDellに肉薄するプライスの製品もある。


そんな中で今回は、MicrosoftのSurface Laptop13_EP-36993を購入した。13インチちょうどの画面サイズで、CPUはSnapdragon Xplus、またいわゆるハードディスクに相当するのはUFS256GBになる。CPUもUFSなる格納装置も耳慣れないが、どちらもスマホに端を発する出自で、高性能かどうかは僕には全然わからないが、消費電力の少なさは従来のノート・パソコン(インテルCore i7とかSSDとか)からは隔絶の感があるようだ。実際のところフル充電後の稼働時間は23時間にも及び、バッテリーよりも人間の方がずっと早くに音を上げることになりそうなスペックだ。ゲームなんかはまったくやらないので、ネットやYouTubeやOfficeソフトを使う程度の僕にとって、CPUをはじめとする性能値に何が何でもと言うこだわりはない。少しだけ迷ったDellのInspiron_13_5330Ultra5のスペックはすごいんだけど、バッテリー駆動時間は半分の11時間。重さもわずかにSurfaceより重く、スマホから出てきたパーツで武装するMicrosoftの商品を、なんだか目新しい気がして選ぶことにしました。



届いた商品を開梱すると、15インチだった前のSurfaceをさらに簡素化した梱包内容で、申し訳程度の取説と、電源コード類がコンパクトに詰め込まれていて、昔々の分厚い取説やら付属のソフトの紹介等は皆無。

充電しながら初期設定を済ませると、あっという間につかえるようになった。もちろんちょっと使ったくらいでは、性能的にどうなのかは全く分からない(かなり使い込んでもわからないかも・・・!)。気になった点は

・意外と重い(1.22kg。このサイズの商品としては重いよね)。

・充電供給のインターフェイスが、USB(タイプA)になった。

  ⇒他の(古い)MicrosoftのPCにも使えるのかな・・・?

  ⇒USBタイプAが2口になった(前は1口しかなかった)。

  ⇒キーボードは、普通に使いやすい!

当面今はそんなところ。今回も長く使えますように・・・。時に以前と同じように10年くらい使えるとしたら、これが僕にとって終のノートPCになるのかもなぁ!



2026年1月13日火曜日

20年前に誂えた、スーツを着る。

2026年、遅ればせながらあけましておめでとうございます。
本年もよろしくお付き合いくださいますようお願いします。

美瑛に移住して、もうすぐ丸19年になる。○○周年と言いうようなイベントにはおよそ興味のない僕だけれども、ふと”もうすぐ20年なんだな”、と思った。

そんな折2025年末、消防署からの郵便で「出初め式に出るように」とのお達しがあった。もちろん強制ではないから行かなくてもいいと言えばいいのだけれども、小さな町の地域活動を担う立場でもあり、地元の安心に大きく貢献してくれている消防団の出初め式には行こうと決めた。往復はがきの「出席」を丸く囲みながら、その下に”ドレスコードはありますか?”と書いてみたところ、直前になって電話回答があり「できればスーツで」とのことだ。

スーツかぁ・・・とあれこれ考えを巡らせてみる。もちろんそう指定されることは、一応は予想していた。がしかし、こうして決定的な連絡をいただくと、聞かなければ良かったかもしれない、と思わないでもない。出初め式は2部あって、1部は消防団ごとの行進を見送る事。真冬の美瑛町の寒風吹きすさぶ役場前で、およそ20分間の分団ごとの行進を見守ることになる。2部は町民センターにおいて、諸々の(多くは永年勤続等の)表彰式に参列すること。スーツと何が関係あるんだ?と思うかもしれないが、特に1部の行進見送りは、はっきり言ってスーツでは辛い。もちろんその上のコート着用等は自由だと思われるが(着なくちゃ無理だし)、襟のあたりのネクタイが見える程度の露出はするのだろうなぁ。

それからもうひとつ、スーツを着用することそのものがひっかかる。かって19年前までビジネスマンとして日々生きていた自分は、毎日のようにネクタイをし、月に数度の出張時には作業着からスーツに着替えて商談等を普通にこなしていた。そう、19年前までは。なのでこの19年ほどスーツを着たことは1度しかない(スタッフの結婚式臨席に際し)。着ることに特段難しい何かがあるわけではないけれども、問題は2点、そのスーツは今着ても問題ないのか(汚れていたり、型がどう見ても時代おくれだったり)、そして私の今の体形は、そのスーツに収まるのか・・・?

2点についてさっそく検証したところ、型落ちと汚れの心配はなさそうだった。たぶん会社を辞す1年前に、初めてオーダーで作ったスーツがあり、まさに定番と言うデザインだったことが幸いした。体形の問題はないとは言えないものの、どうにかごまかせないほどでもない許容範囲だった。20年前と比較して著しい体重増加とかはないと思うのだが、体のラインは残酷なまでに変形し、ウェストがちょうどいい感じでフィットしてくれるはずもなかった。でもぎりぎり履けないことはなかったので2時間弱は我慢することにしよう。ついでながらやはり超久しぶりに身に着けるネクタイも、何とか結べた。

いざ当日(1月9日)、スーツに身を包み姿見の前に立って自分を眺めてみる。まぁ何とかカタチにはなったなと思うと同時に、19年前までの自分のことが急に脳裏にあふれて来た。毎朝ネクタイを選び、結んだ。職場での僕は、当然のことながら会社組織のひとりとして、会社のルールに良くも悪くも縛られていた。形式的で非生産的な会議もあれば、目を見張るような大きなプロジェクトのメンバーにもなった。

それはある面とても不自由で、同時に大きな繭の中にいるような安心感もあった。加えて繭の中では競争や駆け引きも茶飯事だった。今はどうだろう・・・?形式的な会議をやる必要は全然ないし、個人経営だから同僚との駆け引きも上司への気配りも全くする必要は無い。部下を育てる面倒もないし、別部門からの苦情に対応する必要もない。けれども僕を包んでくれていた繭も同時に無くなってしまった。僕は自分の意志でそこから出てしまった。明らかに無意味なあれこれからは解放されたけれども、僕自身のちょっとしたミスや気のゆるみが、個人経営そのものを揺るがす可能性といつも同居することになった。繭の中で暮らしていたころの自由への渇望が満たされると同時に、一寸先は闇の世界に足を踏み入れてしまった。

繭から出て、19年が過ぎたんだ・・・と改めて思った。出てみて初めて見る世界があって、両方の経験ができたことは自分にとってとても貴重なことだと感じる。向き不向きはもちろんあるし、僕の自己評価としては、僕は会社向きのタイプのような気がする。それは今の暮らしが嫌だとか辛いとかでは全くなくて、今の暮らしをそう、存分に楽しめていると思う。説明するまでもなく大成功を収めたわけではないけれども、まぁ19年個人経営やって、何とか続いているんだから結果オーライじゃないかな・・・。

それにしても、出初め式は寒かった。幸い風のないそして雪も降っていない曇り空での行進だったものの、普段着ている防寒着にスーツとコートは遠く及ばなかった(笑)!行進している消防団の面々に至っては、ワイシャツの上に支給されたジャンパー姿で、さらに厳しい寒さに晒されていた。消防団の方々におかれては、貴重な年中行事だったことと思うけれども表彰式だけでいいんじゃない・・・?とつい思ってしまったことは秘密だ。


2025年12月16日火曜日

単に古いクルマが心地よく感じるのは、僕が老いたからかな?

 愛車BMW135iが車検で、5日ほどディラーでお世話になった。その間お借りした代車は、2015年製の320i_xDriveだ。走行距離114,500kmの正直古いクルマだった。さしてスペック的にも取るに足らない(失礼!)車だと思って乗り込んだのだけれども、意外にも運転し始めたその瞬間から、極めて快適で運転しやすかった♬おまけにそれほどパワーもない(いちおうターボ付きで、4気筒2Lながら184PSだから、まぁまぁか。でも1,610kgも車重ある)わりに、軽々と加速もする。絶対的な”速さ”と言う点では、ウチのインプレッサWRX-STIには遠く及ばないんだけれども、運転していて遅いなぁとイラつくことは全くなかった。


まず最初に、機械式のアナログメーターが見やすくて安心感がある(ウチのSTIもアナログだけど、135iは見にくいデジタルなんだよなぁ)。便利機能(クルーズコントロールとか)は皆無だけど、シートヒーターとかの嬉しい&やさしい装備はちゃんとついてる。インパネがすっきりとしていて、どこをいじれば何が操作できるか、最初っからまごつくことなく操作できる。そして走り出せばホントに軽々と1.6tの車体が思い通りに動く(加減速し、曲がって行く)。ゆくゆく(案外近いのかもしれないですけど)愛車を1台にしなくちゃ、となった時には、この車(で、この年式)はかなり有力候補だなぁと思い知った。


車検後に愛車を引き取り、帰路に着くも、代車が恋しい気持ちで後ろ髪をひかれた。135iだって5年生になったとはいえ快適なシートヒーターは完備しているし4駆だし、パワーは有り余るほどだし、不満はない・・・はずなんだけど、デジタルのアナログメーターを見ながら、320iが忘れられなかった。


今年のクルマのトピックとしては、ホンダのプレリュードのリリースは、自分的には結構なインパクトがあった。懐かしさがこみあげてきて、40年近くも前のことをあれこれ思い出してしまった。当然のことながら僕は大いに若々しかったし、世の中も元気に溢れていた。

結論から言ってしまうとあんまり魅力は感じないのだけれども(乗ってもいないのに失礼でごめんなさい)、1987年から発売なった3代目の美しいフォルムを知る僕としては、今回のプレリュード(6代目になります)は刺さらなかった。当時、デートカーとして一世を風靡したプレリュードは、本当にオシャレなクルマだった。最新のプレリュードも洗練されたシルエットを与えられていると思うものの、今の時代に生き残れるかどうかは怪しい。僕は1度もプレリュードのオーナーになったことはないけれども、バブル全盛のころは欲しいなぁと思ったものだ。

今回のプレリュードはFFで、最新のハイブリッド・システムで走る。一番気になるのはプライスで、1グレードのようなんだけど617万円!けしてボリュームゾーンとは言えないスポーティー・カー(スペシャルティー・カーって言うのか?)の価格となると、こうなってしまうのか・・・?それに比べたらマツダのロードスターは2座席の軽量スポーツカーで(さらにマーケットは小さいんじゃないかな?)370万円ほど。トヨタとスバルが協業で世に出す安価なスポーツカー(86とBRZ)はさらに低価格で350万円ほどで上位グレードが用意されている。ロードスターも86とBRZも、ほかに流用できない専用のプラットフォームを有し、どちらも頻繁にマイナーチェンジをしてクルマの完成度向上に余念がないようだ。ロードスターのシルエットは、どんどん洗練されて本当に美しくなったと思う。


この2車種に比べて、プレリュードはこれと言った武器は無いように思う。強いて言えば、プレリュードというブランドそのものかなぁとは思うが、そのブランドに磨きをかけるような何かは、与えられていなさそうだ・・・。

乗ってもいない(し、もちろん運転したこともない)僕が、あれこれプレリュードについて(しかもどちらかと言えばネガなことを)書くのは、とても無遠慮なことに違いない。でも、古い記憶のプレリュードの輝きを知る身として、ちょっと期待してしまう。
もっともBMW320iのこともあるから、とりたてて目を見張るようなスペックと無縁であっても運転したら素晴らしいと感じるのかもしれない・・・。

今日もウチには3台の愛車が鎮座している。どれも4WDなので、雪道には心強い。一番非力なクロスオーバー7が、乗ってて楽しいと言う点ではほかの2台に著しく劣ると言うことでもない。もっぱらお客様の送迎専用車に徹しているけれども、ちょっと多めの荷物を載せて長距離走るのも悪くないんだよね。もちろんSTIと135iの汲めども尽きぬパワーは、かけがえのないものではあるけど・・・。そうそう、ガソリンの価格が少しずつ下がって来て、現在150円/L(レギュラー)。ありがたい♬


2025年11月17日月曜日

映画「平場の月」

 朝倉かすみ原作の小説をもとに作られた映画が、昨日(2025年11月14日)封切られた。1年にほんの数本僕が映画を見に行くのは、まったくもって場当たりで、その時々の宣伝や口コミをたまたま目にしたことがきっかけになることが多い。今回もそう、もちろん原作を読んでいたわけでもないし、ヒロイン役の井川遥に深い興味を抱いているわけでもない。きっかけは、ぼんやり眺めていたYoutubeに流れて来た、星野源の歌「いきどまり」だった。美しいメロディーラインと切ない歌詞に心が震えて、検索して行きついたのがこの映画だ。

うん、なかなか良さそう♫今日ロードショー、スタートなんだ・・・、とか、すっかり見に行く気になって、気が付けば上映時間なんかを調べ上げていた。偶然カミさんが中学校の同窓会で静岡に帰省しているのでひとりっきり。映画は朝一番の8:30から上映のものを見ようと決めた。
https://hirabanotsuki.jp/

さっそく映画について書いてしまおう。あんまりいないとは思うけど、もしこの先この映画を見に行くんだと言う方におかれては、けっこうなネタバレになる予定なのでこの先読まないことをおススメする。


まず、この映画のエンディングは”悲恋”です。

そして最初のカットは50代に足を突っ込んだ主人公の二人が、生まれ育った東京近郊の町で再会する「今」の場面。主人公の青砥(あおと)を堺雅人が、その相手役の須藤を井川遥が好演する。二人のバックグランドには、この世代特有の健康面のこと、介護のこと、終わりそうで終わらない子育てのこと等々が、それぞれにどっさり纏わりついている。

場面は時折二人の出会いと、芽生えた初恋のシーンへと移る。中学生の純真な2人。複雑な設定の須藤の家庭環境。叶わない青砥の想い。そしてまた「今」に戻って、不器用にちょっとずつちょっとずつ歩み寄るふたりの恋心。不器用な50代のふたりが、周囲を固める実力派俳優の包囲網の中で、もどかしいほどにゆっくり距離を詰める。

生き様をゲームに例えられるとも思わないけど、無理やりゲームっぽく言えば王手をかけた50代の青砥。そしてそれを受け止めきれずに拒絶してしまう須藤。好き、嫌いだけでは片づけられないふたりのこれまでの生い立ちや生活環境が、どうしても須藤を素直にさせない展開に、見ているもののもどかしさも頂点に達する・・・。

1年の後、約束の12月20日に残り1週間になろうとする頃、スマホのリマインダーがそのことを告げる。もう間もなく嬉しい再会の日が近い!が、指折り待つ青砥の想いを木っ端みじんに打ち砕く、須藤の他界の噂。何もかもが「無かったこと」になってしまう厳しい現実に、嗚咽を殺せない青砥を、迫真の演技で堺が唸る。


タイトルの「平場」は、普通の、と言う意味らしい。普通の暮らし、普通の毎日、特に何ということもない日々の繰り返し。信号でちょうど青に変わる瞬間に出くわしたことを、ラッキーと喜ぶささやかな幸せ・・・。

生前、小さなアパートの窓辺から月を眺める須藤に「何考えてたんだ?」と青砥が聞くと「夢みたいなことをね、ちょっと」と答える。当たり前のことが夢みたいになってしまうその先を予感させるセリフは、リフレインに溶け込んでいく。



エンディングのテロップを見るともなく見ていると、ストーリーを実写したかのような挿入歌「いきどまり(星野源)」が流れる。そうそう、この美しいメロディーラインが、この映画を見に連れて来てくれたんだった・・・と思い出した。

ちなみにこの映画の挿入曲はもう1曲、薬師丸ひろ子の「メイン・テーマ」がある。またこの曲が、絶妙のタイミングで流れるんだよね。


とても悲しい、切ないお話。泣き虫な僕は、涙止まらずかと思いきや。今回は全然泣けなかった。なんというか、もう主人公に感情移入し過ぎちゃって、泣いてる場合じゃなかった。でもって、めちゃいい映画だった!

今年は5月にも1本、「父と僕の、終わらない歌」ってのを見たんだけど、こっちもとても良かった♬日本映画もなかなかやるよね!


追記:やっぱり原作の小説も買ってしまった。余韻に浸りながら読もう。


2025年5月22日木曜日

45年前にタイムスリップする、オロロンライン。

 大学3年生の夏、希望者、私も含めて3人は、真夏の旭川にアルバイトに来ていた。場所は林産試験場。今から45年も前のことになる。毎夏私の通った大学の、とある学科から、定例的にアルバイト要員を派遣することが習わしとなっていたようで、希望すれば数名を受け入れてくれた。先輩が就職しており、たぶん活躍されていたのだと思う(後に、この施設の所長になられたと聞き及んだ)。

大学は静岡市にあって、そこから遥か彼方の北海道旭川市にアルバイトに行くとなれば、普通は”大丈夫かな?”と諸々のことが気になるが、旅費はアルバイト代で何とかなる点、試験場の寮が利用でき、3食を賄ってもらえる点、勤務時間以外は全く拘束されない点などに目がくらみ、思い切って挙手をしたのがつい先日のことのようだ。

いざ、行くと決まってからは着替えなどのささやかな荷造りを済ませ、3人で私のクルマに乗り込むこととして、旭川までのルートを市販の地図で(ネットのマップなんてあるはずもなく)確認した。道中は、宿泊施設は利用せず、ひたすら交代制で運転するもの、地図見ながらナビするもの、寝るものの役割分担で強行した。3人のうち一人は免許取り立てだったが、何しろ強行軍なので時折運転をお願いせざるを得ず、結果怖い思いも数度あったけれども、運よく事故には至らなかった。一番のピンチは青函連絡船に乗る時にやって来た。ちょっと青森港までの時間配分に読みの甘さがあり、青函連絡船の最終便に間に合うかどうか、かなりぎりぎりのタイミングになっていたと思う。運転を車の持ち主である僕が担い、かなり速度違反をしつつ、無理な追い越しを何度もして30分ほど巻き戻して青森港に着いたのは4時くらいではなかっただろうか・・・。ところが無知な私たちに厳しい現実が突き付けられる。連絡船の乗船は予約が基本で、特にクルマは予約で概ね満車であり、載せてもらえる可能性がほとんど無いことがわかった。

しかし、それでは困る。今夜北海道に上陸し、明日中には旭川市まで着いていなくてはならない。明後日からは勤務なのだ。まぁ無知丸出しの僕たちは、次善の策などの持ち合わせもなく、翌日最早の船に滑り込んで、函館から今まで以上に飛ばすか・・・というくらいしか代案が無かった。当時は高速道路は皆無だったので、函館から旭川までは10時間くらいかかったと思う。

ところがどういう風の吹き回しか、乗船予定のクルマに一定数のキャンセルが出たらしく、希望すれば最終便に乗せてもらえることが判明。あまりの嬉しさに、青森港で学生としてはかなり贅沢なまぐろ丼をかき込んで、お腹も気持ちも満タンでフェリーに乗り込んだ。そこから先はほとんど記憶が無い。次の記憶のページには、試験場で勤務する自分たちの事しか残っていないのだ・・・。

当時、林産試験場は旭川の市街地にあって(旭川市緑町)、古い庁舎が広い敷地に点在し、合板の暴露試験や木材の破砕機によるチップのサイズを測ったりしていたと記憶する。そこで月曜8時から土曜の正午まで勤務し、土曜の午後から翌週月曜日の朝までが、待ちわびた自由時間だった。

初めの1週間は、大人しく過ごした。歓迎会なんかもやってもらって、終業後の5時からソフトボールの試合もあったりした。最初の週末は慣れていない旭川市街の散策に出かけたんだと思う。札幌よりもまだ果ての旭川市は、当時45万人くらいだった静岡市(清水市との合併前)の繁華街と比べても遜色ない賑わいだった。日本で最初の歩行者天国なども展開され、出来たばかりの旭川西武百貨店は、ものすごい賑わいを見せていた。

そして、愛知・静岡で暮らした僕らにとって、真夏の旭川はあまりにも爽やかで過ごしやすかった。特に深夜から早朝にかけて、肌寒いと思えるほどの気温と湿度の低さには驚いたものだ。寮長の奥さんが「寒くはないかい」と心配してくれたのも、納得がいくところだった。


さて、今回のお題のオロロンルートにやっと触れようと思う。2週目の週末は、屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖を周った。安いユースホステルを予約し、ごった返す北海道の真夏の観光地で、旅行気分を味わった。そして、3回目の週末、僕らは土曜の正午と共にお昼ご飯をかき込み、稚内へと向かったのだ。日本の最北端に行っておきたい。ただ単にそれだけの動機だった。旭川を発って(たぶん深川経由で)留萌に行き、そこから海岸線をひたすら北上した。当時その道をオロロン街道と言ったかどうかは記憶が無い。

当時の僕の愛車は、8年落ちくらいのカリーナGTだった。1,600c.c.ではあるものの、当時は珍しいDOHC車だった。学生が乗るには少しばかり値が張ったが、クルマで飛ばして走ることが何より好きだった僕は、その点は厭わなかった。その愛車を駆って、北海道の海岸線をハイスピードで北上する。日が暮れる前に稚内まで行きたかった。

結構なスピードで飛ばしているにもかかわらず、出たばかりの真新しいブルーバード・ターボ(910型)が僕らを抜き去って行った。さらにアクセルペダルを踏みこんで、ブルーバードを追った。北上する海岸線の国道232号線は、左に日本海が広がり右側は緩やかな緑に覆われた丘が、果てしなく続いていた。青い海と青い空、そしてどこまでも続く道と緑の丘。まるで今で言ったらジブリの世界のような、誰にもある記憶の一部だけど、それが果てしなく続く非日常感は、僕らが最果ての地北海道にいる実感を深く刻み込んだ。ブルーバードはものすごく早かったけれども、何とかついていくことができた。そうしてたぶん、1時間近くも海岸線の国道を古いカリーナGTはブルーバードを追っていた。


あれから45年も経つ。僕はあの頃と違い、66歳になった。そしてあの日と同じように国道232号線を飛ばしながら、大海原と果て無く続く道と緑の丘を眺めた。なんて変わらない風景なんだろう・・・?またあの時と同じ赤い910型ブルーバードが追い越してきそうな気がする。いろいろな・・・もう数えきれないほどたくさんのことを忘れてしまったけれども、あの時この道を古いクルマのハンドルを握ってブルーバードに追いすがった記憶は、なぜかぴたりとフォーカスが合ったままだ。

随分と45年前の記憶に浸りきってしまった・・・。せっかく今日行って来たのだから、今日の出来事をメモとして記しておこう。

美瑛から留萌まで、およそ1時間40分ほど。深川(深川西IC)から留萌まで高速道路が利用できる(無料)。留萌から北上して小平の鬼鹿港(おにしかこう)にあるすみれ食堂は行く価値あり。今回はさらに北上し苫前を越えて羽幌まで行った。羽幌の渋谷水産直売店の食堂は素晴らしかった。えび(甘エビ)が特産で春先から今頃までが旬。今日はうに丼をいただいたが、人生で最高のうに丼だった。うにの新鮮さ、ボリューム、そして味わい深さは白眉。極めつけは価格(2025年5月で2,200円)。いつかうにと言えばの積丹で食べてみたいが、ここ羽幌のうに丼はリピートしたい!

留萌から海沿いの国道232号線を北上しほどなくすると、留萌灯台がある。なかなか絵になる灯台だ。灯台までクルマで上がる道を運よく探し当てた。これっぽっちも案内(看板や表示)がないので、知っていないとなかなかたどり着けないのではないかな(Google Mapにも、道路は記されていない)。日本海も留萌市も一望できて、寄る価値あり。アプローチの案内は皆無だが、不思議なことに灯台に着くと説明看板などはしっかりある。

帰りに深川市内にて速度違反で警察に捕まってしまった・・・。深川市内は過疎化が進み、商店街でもシャッターを下ろしている店舗が多く「こんなところだと、ネズミ捕りも無さそうだな」なんて話していた矢先の事でした。50km制限の道路を78kmで走行と記録され、減点3、罰金18,000円を課されました。高額納税者になってしまったよ(涙)。悲しいかな、苦節13年で2022年11月に手に入れたゴールド免許は、1期(5年)で失うことに・・・!


2025年4月29日火曜日

43年ぶりの同窓会、そして東京九段へ_その2。

 同窓会で貴重な時間を過ごした翌日、午前中は同窓生の一人にお相手いただき、懐かしい静岡周辺の街並みを、彼の愛車に乗せてもらって満喫した。車は最新のレンジローバー・イヴォーグ。車好きの彼だけあって、極めて良いセンスをしている♬

焼津との境の大崩れ海岸にあるカフェ(当時は”かもめ館”と言う名だった)は、改名して”ダダリ”になっていた。残念ながら土日のみの営業で、月曜日に押しかけた我々は、入店の機会を逸してしまった。半分の目的はかなわなかったものの、かもめ館へと続く海岸線の道をドライヴできたのは本当に良かった。懐かしさがこみ上げた。その後清水へ向けて走り、シラスと旬の桜エビをかき揚げで食べさせてくれるお店に滑り込んで、昼過ぎに静岡駅で別れた。再会を誓い合ったのは言うまでもない。途中富士山の雄姿に出会えたことも、記憶に残った。

静岡を後にして、東京へ向かう。実は今回の同窓会に合わせて、せっかくなのでもうひとつ旅の目的を用意しておいた。それは東京九段の靖国神社への参拝だ。初めに記しておくけれども、僕は右翼でも無いし、第二次大戦参戦の大いなる支持者でももちろんない。昭和天皇をこよなく崇拝するほど知識も無ければ、靖国神社が戦時に執り行ったと言う合祀にも詳しくはない。

けれども、そこには第二次大戦で散った、大勢の私たち日本人(主に軍人)の亡骸が祀られているということは事実だろう。A級戦犯も同様に眠るため、ある種の思想家や海外のいろいろな視線は、否定的にとらえる向きもあると聞き及んでいる。ではあるかもしれないけど、年端も行かない私たちの先人が、国家権力の名のもとに貴重な夥しい命を散らしてしまい、その人たちの多くを弔ったのが(今や神社だから、弔うはヘンかな?)靖国神社だと認識する。



ここ最近メディア(特にNHKのテレビ番組)で、第二次大戦の映像を見る機会が増えている。戦局は真珠湾攻撃から展開し、ミッドウェー海戦で守勢に封じられていくわけだけれども、連綿と続く歴史の流れからすれば、それよりはるか以前の日清戦争から、すでに第二次大戦突入の引き金を引いていたとも考えられる。富国強兵にひた走り、列強のアジア全土の植民地化に抵抗し、石油や鉄鉱石などの富国強兵の生命線ともいうべき資源確保狂騒に奔走した大日本帝国が、やがては列強と刃を交えることになるのは、他人事のように記せば「必然だった」のかもしれない。実のところ、昭和15年当時に時計を巻き戻すことができたとして、あの時日本はどう振舞い、どう生き延びれば良かったのだろう・・・?

私が高校時代に無条件で信じ切っていた新聞各社は、あまりにも身勝手だ。もちろん当時、お国の提灯記事を書かされていた向きも否定はしないが、戦争を肯定し、煽り、戦局を誇大に勝ち戦と喧伝し、発行部数を稼ぎまくっていたのは紛れもない事実だ。しかも終戦とともに筆致は逆転し、舌の根も乾かぬうちに戦争へ向かった国の判断に鋭く批判を繰り返した。ペンは剣より強し、が聞いて呆れる。儲けるために戦局を捻じ曲げて報じ、それを国家権力の圧力だと逃げ、果てはGHQの後ろ盾でも頼りに、自分の書いたことをすべて棚上げして戦後の価値観に(占領下の価値観に)塗り替えていく。

僕自身高校から大学を卒業するまでは、大日本帝国の歩んだ過ちを胸に刻み、アジア諸国に及ぼした傷を恥じていた。しかし、時は流れて平成になり令和になって、当時の事実が少しずつ詳らかになるこの頃、その真実についてもう少し知っておくべきではないかと思うようになっている。


そもそもいわゆる戦後処理の名のもとに、誤ったことを正す論調として軍国主義の象徴ともいえる靖国神社批判があったことは事実だと思う。僕自身もそれは薄々感じていたし、靖国を支持し参拝する人々の気持ちを理解できないでいた。政府要人の参拝も、結局のところ票集めにつながる行為だろうと決めつけていた。けれども、一部の狂信的な集団を除いても、絶えることの無い靖国参拝はどういう理由だろうと少しずつ疑問が膨らむ。

おりしもNHKで放映される「映像の世紀(バタフライ・エフェクト)」において、様々なテーマで映像を通した現実が放映されるのを見るにつけ、先の大戦で散った多くの軍人が、皆軍国主義に洗脳され、徒にアジア周辺国を隷属させていったわけではないと知ってしまう・・・。加えて中近東ではイギリスのスパイが暗躍し、たくさんのアラブ国家に調子のいい約束を吹聴して、次々に石油権益をだまし取って行く様も知ることとなった。明治から大正へ、そして激動の昭和に至り、あまりにも知らないことが多すぎる自分にとって、靖国神社に実際に行ってみて、そのあり様と展示などをつぶさに見てみたいと思う気持ちがくすぶるようになった。


靖国神社に行ったその日は、4月中旬の穏やかな晴れ間の広がる日だった。思いのほか広い境内は、3つの鳥居のその奥に本殿がある。老若男女が、そして予想だにしなかったけれども金髪の子女や肌の黒褐色の人までもが、神社の境内に集っていた。私と家内は鳥居をくぐるごとに頭を下げ、長い境内の道を小さいながらスーツケースを牽いて本殿で手を合わせた。靖国神社のあり様や、その存在意義について、ここで僕自身がどれだけ記載してもごく極端な一部を切り取るようなことになるだけだと思うので、これ以上は何も書けない。靖国神社とは直接関係が無いかもしれないけれども、東京裁判の11人の判事の一人、ラダ・ビノード・パール判事について、もし時間と気持ちに余裕があれば検索いただくのはどうだろう・・・。ただ一人、東京裁判において全25人の被告に無罪判決を下した判事の主張は、知るに値する。もちろん彼が日本軍の行った残虐行為に対して厳しい指摘をしているのは事実だが、敗戦国日本の軍を指揮していた中枢の人物に対して無罪と主張したことは(もちろん裁判結果には微塵も反映されなかったわけだけれども)、今になって驚くとともに、改めて深い無知を恥じるばかりだ。


靖国神社で2時間余りの時間を割いた後、僕らは千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも足を運んだ。この墓苑は靖国神社と違い、現在は天皇陛下や総理大臣が慰霊祭に公式に訪れる、靖国神社とは違う場所だ。言ってみれば第二次大戦の公的な無縁仏とでも言えばいいだろうか?

ここは、戦後まもなくアジアの国々や南西諸島の激戦地から戻った大勢の遺骨を弔う場所として日本政府が用意した場所だ。靖国神社が軍人を祀るのに対して、ここは軍人・民間人を問わず、引き取り手のいない(わからない)遺骨を納める無縁仏だ。

何となく、靖国神社に行っただけでは片手落ちのような気がして、この戦没者墓苑にもどうしても行っておきたかった自分としては、願いが叶った。

今を生きる日本人は、多かれ少なかれ第二次大戦の負い目みたいなものを胸に生きていると思う。もちろん私たちの先人が誤りを犯してしまったことは事実なのかもしれないけれども、先人のたどったその道のりの真実を知ることの意義は大きい。靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑を訪れて、やはり先の大戦参戦への判断は正しかったのかもしれない・・・、なんて思うようなことは少しもない。しかし、パール判事の説く、「正義は戦勝国にあると言うことに対する疑念」は、正直深まった。もしかしたら靖国と千鳥ヶ淵に行くことで、僕の胸の奥につかえる何かが少し解消するかも・・・と安易に抱いていた曖昧な予想は外れてしまったけれども、僅かばかりの真実を携えて北海道に戻ることができる。

九段界隈では欧米人や中国人や、たくさんの海外旅行者が行き交い、道には欧米のクルマがたくさん走っていた。靖国に眠る英霊や、千鳥ヶ淵に安置された遺影は、この九段のあり様を見て、どう思うのだろう・・・。今現在平和にみちるこの日本で、その平和を実現するために死に物狂いで生きた先人に思いを馳せないではいられない。