同窓会で貴重な時間を過ごした翌日、午前中は同窓生の一人にお相手いただき、懐かしい静岡周辺の街並みを、彼の愛車に乗せてもらって満喫した。車は最新のレンジローバー・イヴォーグ。車好きの彼だけあって、極めて良いセンスをしている♬
焼津との境の大崩れ海岸にあるカフェ(当時は”かもめ館”と言う名だった)は、改名して”ダダリ”になっていた。残念ながら土日のみの営業で、月曜日に押しかけた我々は、入店の機会を逸してしまった。半分の目的はかなわなかったものの、かもめ館へと続く海岸線の道をドライヴできたのは本当に良かった。懐かしさがこみ上げた。その後清水へ向けて走り、シラスと旬の桜エビをかき揚げで食べさせてくれるお店に滑り込んで、昼過ぎに静岡駅で別れた。再会を誓い合ったのは言うまでもない。途中富士山の雄姿に出会えたことも、記憶に残った。
静岡を後にして、東京へ向かう。実は今回の同窓会に合わせて、せっかくなのでもうひとつ旅の目的を用意しておいた。それは東京九段の靖国神社への参拝だ。初めに記しておくけれども、僕は右翼でも無いし、第二次大戦参戦の大いなる支持者でももちろんない。昭和天皇をこよなく崇拝するほど知識も無ければ、靖国神社が戦時に執り行ったと言う合祀にも詳しくはない。けれども、そこには第二次大戦で散った、大勢の私たち日本人(主に軍人)の亡骸が祀られているということは事実だろう。A級戦犯も同様に眠るため、ある種の思想家や海外のいろいろな視線は、否定的にとらえる向きもあると聞き及んでいる。ではあるかもしれないけど、年端も行かない私たちの先人が、国家権力の名のもとに貴重な夥しい命を散らしてしまい、その人たちの多くを弔ったのが(今や神社だから、弔うはヘンかな?)靖国神社だと認識する。
ここ最近メディア(特にNHKのテレビ番組)で、第二次大戦の映像を見る機会が増えている。戦局は真珠湾攻撃から展開し、ミッドウェー海戦で守勢に封じられていくわけだけれども、連綿と続く歴史の流れからすれば、それよりはるか以前の日清戦争から、すでに第二次大戦突入の引き金を引いていたとも考えられる。富国強兵にひた走り、列強のアジア全土の植民地化に抵抗し、石油や鉄鉱石などの富国強兵の生命線ともいうべき資源確保狂騒に奔走した大日本帝国が、やがては列強と刃を交えることになるのは、他人事のように記せば「必然だった」のかもしれない。実のところ、昭和15年当時に時計を巻き戻すことができたとして、あの時日本はどう振舞い、どう生き延びれば良かったのだろう・・・?
私が高校時代に無条件で信じ切っていた新聞各社は、あまりにも身勝手だ。もちろん当時、お国の提灯記事を書かされていた向きも否定はしないが、戦争を肯定し、煽り、戦局を誇大に勝ち戦と喧伝し、発行部数を稼ぎまくっていたのは紛れもない事実だ。しかも終戦とともに筆致は逆転し、舌の根も乾かぬうちに戦争へ向かった国の判断に鋭く批判を繰り返した。ペンは剣より強し、が聞いて呆れる。儲けるために戦局を捻じ曲げて報じ、それを国家権力の圧力だと逃げ、果てはGHQの後ろ盾でも頼りに、自分の書いたことをすべて棚上げして戦後の価値観に(占領下の価値観に)塗り替えていく。
僕自身高校から大学を卒業するまでは、大日本帝国の歩んだ過ちを胸に刻み、アジア諸国に及ぼした傷を恥じていた。しかし、時は流れて平成になり令和になって、当時の事実が少しずつ詳らかになるこの頃、その真実についてもう少し知っておくべきではないかと思うようになっている。
そもそもいわゆる戦後処理の名のもとに、誤ったことを正す論調として軍国主義の象徴ともいえる靖国神社批判があったことは事実だと思う。僕自身もそれは薄々感じていたし、靖国を支持し参拝する人々の気持ちを理解できないでいた。政府要人の参拝も、結局のところ票集めにつながる行為だろうと決めつけていた。けれども、一部の狂信的な集団を除いても、絶えることの無い靖国参拝はどういう理由だろうと少しずつ疑問が膨らむ。
おりしもNHKで放映される「映像の世紀(バタフライ・エフェクト)」において、様々なテーマで映像を通した現実が放映されるのを見るにつけ、先の大戦で散った多くの軍人が、皆軍国主義に洗脳され、徒にアジア周辺国を隷属させていったわけではないと知ってしまう・・・。加えて中近東ではイギリスのスパイが暗躍し、たくさんのアラブ国家に調子のいい約束を吹聴して、次々に石油権益をだまし取って行く様も知ることとなった。明治から大正へ、そして激動の昭和に至り、あまりにも知らないことが多すぎる自分にとって、靖国神社に実際に行ってみて、そのあり様と展示などをつぶさに見てみたいと思う気持ちがくすぶるようになった。
靖国神社に行ったその日は、4月中旬の穏やかな晴れ間の広がる日だった。思いのほか広い境内は、3つの鳥居のその奥に本殿がある。老若男女が、そして予想だにしなかったけれども金髪の子女や肌の黒褐色の人までもが、神社の境内に集っていた。私と家内は鳥居をくぐるごとに頭を下げ、長い境内の道を小さいながらスーツケースを牽いて本殿で手を合わせた。靖国神社のあり様や、その存在意義について、ここで僕自身がどれだけ記載してもごく極端な一部を切り取るようなことになるだけだと思うので、これ以上は何も書けない。靖国神社とは直接関係が無いかもしれないけれども、東京裁判の11人の判事の一人、ラダ・ビノード・パール判事について、もし時間と気持ちに余裕があれば検索いただくのはどうだろう・・・。ただ一人、東京裁判において全25人の被告に無罪判決を下した判事の主張は、知るに値する。もちろん彼が日本軍の行った残虐行為に対して厳しい指摘をしているのは事実だが、敗戦国日本の軍を指揮していた中枢の人物に対して無罪と主張したことは(もちろん裁判結果には微塵も反映されなかったわけだけれども)、今になって驚くとともに、改めて深い無知を恥じるばかりだ。
靖国神社で2時間余りの時間を割いた後、僕らは千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも足を運んだ。この墓苑は靖国神社と違い、現在は天皇陛下や総理大臣が慰霊祭に公式に訪れる、靖国神社とは違う場所だ。言ってみれば第二次大戦の公的な無縁仏とでも言えばいいだろうか?
ここは、戦後まもなくアジアの国々や南西諸島の激戦地から戻った大勢の遺骨を弔う場所として日本政府が用意した場所だ。靖国神社が軍人を祀るのに対して、ここは軍人・民間人を問わず、引き取り手のいない(わからない)遺骨を納める無縁仏だ。
何となく、靖国神社に行っただけでは片手落ちのような気がして、この戦没者墓苑にもどうしても行っておきたかった自分としては、願いが叶った。
今を生きる日本人は、多かれ少なかれ第二次大戦の負い目みたいなものを胸に生きていると思う。もちろん私たちの先人が誤りを犯してしまったことは事実なのかもしれないけれども、先人のたどったその道のりの真実を知ることの意義は大きい。靖国神社と千鳥ヶ淵墓苑を訪れて、やはり先の大戦参戦への判断は正しかったのかもしれない・・・、なんて思うようなことは少しもない。しかし、パール判事の説く、「正義は戦勝国にあると言うことに対する疑念」は、正直深まった。もしかしたら靖国と千鳥ヶ淵に行くことで、僕の胸の奥につかえる何かが少し解消するかも・・・と安易に抱いていた曖昧な予想は外れてしまったけれども、僅かばかりの真実を携えて北海道に戻ることができる。九段界隈では欧米人や中国人や、たくさんの海外旅行者が行き交い、道には欧米のクルマがたくさん走っていた。靖国に眠る英霊や、千鳥ヶ淵に安置された遺影は、この九段のあり様を見て、どう思うのだろう・・・。今現在平和にみちるこの日本で、その平和を実現するために死に物狂いで生きた先人に思いを馳せないではいられない。