2023年11月19日日曜日

必要は、発明の母。

 なんでも欧州のことわざらしいこの言い回し。時折、自分の暮らしにピタッと当てはまる場面がある。一番そのプレッシャーにさらされるのは、お客さまからの要望だ。今回は、卵を使ったものを、食べられないというご希望です。

"ふーん"、と軽く流すことはできない。最後に召し上がっていただくデザートには、メレンゲが使われることが多い。アパレイユ(プリンとか)も、当然ダメってことになる。となると、僕の手持ちのデザートは、全滅だ・・・。


いや、ちょっと待てよ・・・。こんな時、こういうレシピをデータベースにしておくと便利なのだが、そういうことに疎い(どうも、のど元過ぎれば・・・の傾向にある)僕は、こういう大事なことを、ちゃんと整理整頓しておくのが苦手だ。

ま、とにかく自分が過去に作ったことのあるデザートを片っ端から思い出してみた結果、ゼリー系のものと、タルトタタンが該当するようだとなった。ゼリー類はこの時期ミスマッチなので辞めるとして、タルトタタン・・・。ここ何年かやってない。でもまぁ、何度もやったことはあるし、ちょうどリンゴの美味しい季節だからやりましょうと決心した。

この決心するまでがとっても大切で、お客さまからのご希望と言う状況が、普段やっていないデザートの再登場を可能にしてくれる。自分自身のデータベースはないけれども、ありがたいことにネットに投げてみると、果てしない事例が見てとれた。

昔やっていた僕のレシピだと、角状の型にリンゴを敷き詰めて行って、お出しするときに型から出して6個に切っていたが、型崩れしやすくてそこは難儀だった。よくある丸型の事例が一番Youtubeにも掲載されているのだが、目を引いたのが小さめのプリン型を使って、1人分ずつ焼き上げてお出しするヤツだ。1個ずつ型抜きするのがちょっと手間だが、型崩れして出すとき再成型する手間(再成型不可能な場合もある!)からは解放されそうだ!

さっそく試作品を作ってみる(いきなり本番でやる自信はないもの)。リンゴの種類を選ぶようだけど、上手くリンゴをあめ色に煮ることができれば、そんなに難しい工程はない。今回は、シナノスィートという黄色いリンゴ(固くて、荷崩れしにくいところがポイントです)を使いやってみた結果、上手く試作できた。リンゴの種類はちょっとした難題で、紅玉(デザートにはイチオシですよね)的な(固さがあって荷崩れしにくく、しっかりした酸味もあるもの)が望ましいけれども、いつもそんなリンゴが手に入るわけじゃない。まぁ、あるものの中から良さそうなものを選びながらやって行きましょう。

シナモンパウダーを加えてしっかりとキャラメル色に煮たリンゴを型に敷き詰めて、その上にこれまたしっかり目に立てたホィップを載せる。赤(苺かな)と緑(今はやりのシャインマスカット!)なんかを添えると、綺麗だよね。


ところでこのお話には後日談があって、すぐ後に4泊するお客様のご予約が・・・。それで、このタルトタタン騒動の時に思い出した、もう一つの忘れかけたデザート、クリームブリュレもやってみようとなりました。実はこのブリュレ、以前にトライした時にどうも完全にモノにできないまま中途半端でやめちゃったので、この機会にレパートリーにしたかったのです。

こちらもネットで予習して、試作して・・・の流れで、何とかなりそうだと判明。ちょっとしっかりバニラビーンズ使って、グラニュー糖でもいいけど、せっかくなので鹿児島の友人からもらったカソナード(サトウキビで作った黒砂糖)で最後のバーナー焼きして・・・。1回バーナーでハデに火傷したけど、こちらもお客様に美味しく召し上がっていただけるようになりました♬

ネットでいろいろな情報入手できる、とても便利な時代になりましたね。しかも動画がいっぱい掲載されているので、細かい(文字では伝わりにくい)微妙な加減もわかります。「よし、やってやろう!」と決心すれば、だいたいのことは欲しい情報が見つけられるのは、すごく便利だなと思いました。本当は、長いコロナ禍の時間をもて余していた時に、手持ちの技術の棚卸をして整理整頓し、何度か試作品にトライしてモノにしておけば良かったんだけど、元来怠け者の僕は、お客さまから条件付けられないとできないタイプのようです。

2023年3月16日木曜日

17回目の冬の終わりに。

はじめて美瑛の冬を知ったのは、確か2006年の1月だっただろうか・・・。美瑛に、愛知県から移住することは心に決めていて、どこに自分の拠点を据えようか、あれこれと(と言っても選択肢は少なかったように記憶する)不動産を物色しにやって来ていた。

胸の中には溢れんばかりの憧れや夢があって、それにまけないくらいの不安や焦燥感にも押しつぶされそうになっていたっけ。何しろほどなく25年勤めた会社を辞す決断はとっくにしていたし、会社勤めしかやったことの無い僕に自営業というものが務まるのかどうか、わずかな自信も、若干の勝算さえも持ち合わせて居なかった。ただただ、やってみたい、行ってみたいと言う気持ちだけに急き立てられて、気が付いたら美瑛町の不動産を購入する契約書にサインをし押印もしていた・・・。

 

けして、人生において大きな決断をたくさんしてきた経験があるわけでもない僕にとって、ここ美瑛への移住は、紛れもない一大決心だった。ささやかながら、それまで積み上げて来た会社勤め人としての、全ての信用を失ってしまう行為であったし、見返りに何かが用意されているわけでもなった。例えば、新たにクレジット・カード1枚作る事さえ、相当ハードルが高くなってしまい、ざっくり言えば無理と言うケースが多いのが現実になった。

 

あの、わけもわからないような一大決心から、17年の年月が流れた。僕は何度か失敗をし、勘違いをし、そしてそこそこ地道に働いて、2017年には共同経営者の出現もあり(むしろ、そちらから強いプッシュを受けて)2軒目の宿泊施設「丘のほとり」をオープンさせていた。多忙だったけれども、いろいろな夢が叶うフェーズにいることに、ちょっぴり酔いしれていたかもしれない・・・。成功者の端くれになったような、勘違いをしていたんだと思う。

そこに、コロナ禍がやってきた。2020年1月、神奈川県で最初の感染者が確認されると、瞬く間に日本中に伝播してしまった。3月、ついに今まで経験のない宿泊者数ゼロ、という月を迎えてしまった。翌4月もゼロだった。緊急事態宣言と称して、旅行はもちろん、移動やイベント開催にも制約がかけられた。未知の病原菌(コロナウィルス)の存在に、日本中がコロナ狂騒曲に怯え切ってしまった。普段楽観的な僕でさえ、この狂騒曲は半年ではとても鳴り止まないだろうと感じた。へたすると1年くらい続くか・・・・。


ところが現実はさらに容赦なく、コロナ禍によるいろいろな規制を受ける日々が丸2年以上も続いてしまう。年間の集客数は4分の1になり、ささやかな別チャネルによる売り上げ増を図るも(パンの販売とか)、あっという間に資金ショートを起こしてしまいそうな状況に陥った。幸い政府の動きは早く、無利子貸し付けや、純然たる補助金(返済義務なし)や、正規雇用している社員に対する助成金などいろいろな支援策(おもに金銭的な支援)を施策として早々に実施してくれた。一部(飲食店などでは)、補助金太りが指摘されるケースもあったけれども、どこかに線引きをする以上、不公平なケースも出来てしまうわけで、そこに大いに不満をぶつけても意味のないことだと思う。とにかく政府の対応に救われた感は否めない状況だった。

 


2022年に入ると、それまで以上に感染者は急増するケースが何度かあったけれども、緊急事態宣言の発令は皆無になった。もちろん手厚かった補助金政策も次第に無くなって行ったけれども、2022年夏以降コロナのワクチン接種の浸透とともに、復活を実感できるほどに国内のお客様の来館が戻って来た。このまま回復基調で推移すれば、コロナ禍前までとはいかないまでも70~80%くらいの売り上げ確保ができるようになり、大赤字から脱出できる可能性が出て来た。

長い(丸々3年に及ぶのか!)のコロナ狂騒曲が、やっと最終楽章に入った様子で、真っ暗だったトンネルの中から、出口の光がはっきりと見えて来た気がした♬自分が精いっぱい働く中で、会社が軌道に乗りつつあることを実感できるのは、素晴らしい体験だと思う。

 

ところが好事魔多し・・・、とはよく言ったものでこんな時に限って、また厄介ごとが転がり込んでくる!2017年に設立した会社の共同経営者が、白旗を上げたのだ。コロナ禍で、なんとか会社を存続させるために、必死で無い知恵絞って、出来る限りの節約に努めてやってきた僕としては、極めて残念な通達だ。

コロナ禍で、会社・自分・共同経営者の3つが、どこも倒産しない状態を維持する必要があった。一番危なっかしいのは紛れもなく会社で、僕自身の老後はかなり心配ではあるものの、ささやかながら年金もいただけるようになり、まぁその日暮らしで繋げるくらいの状況にはある。会社だけは何とかしよう、共同経営者のためにも倒産させてなるものか・・・。そう意気込んで、綱渡りをしてきた。ところが共同経営者が「もう駄目です、資金を回収させてほしい」と申し入れてきた。蓄えの全くないわが社から、数千万円の資金引き上げを要請してきた。もちろん、この時期に無理は承知でのこと。悩みに悩んだ末の申し入れだった。

 

「話が違うじゃないか」と喉から出かかる言葉を、やっとの思いで飲み込む。彼だって、言わずに済むならそうしたかったはずだ・・・。とにかく、会社は急転直下、大ピンチに追い込まれることになった。

コロナ禍を、どうにかこうにかしのぎきった今、もう会社には(そして僕自身にも)、余力はない。共倒れの文字も、ちらちらと浮かんでは消える始末だ。


 
でも、なんだろう・・・?いい解決案があるわけでもないのに、妙に「何とかなる、何とかこの窮地を脱出できる」という予感が、脳裏を駆け巡るのだ。17年前の冬、何ひとつ先のことが見えないあの頃のことを思えば、はるかに知恵も人脈も出来たように思う(貯蓄はないけど)。少し日が長くなり始めた3月1日、大ピンチの真っただ中で根拠のない勝算に麻痺しているのは、どうしてだろう・・・?

そう、とにかくあの夢いっぱい、不安もいっぱいだったあの冬から17年が過ぎた。回り道だらけの17年だったけれども、不思議に根拠のない自信めいたものが背中を押す。移住したのは2007年の早春で、開けた2008年あたりは、たぶん一番(紛れもなく、今以上に!)経営が厳しかった。開業間もない私の最初の宿「四季」は、丸2年を待たずに店じまいするしかないのか・・・、あの頃は本当に追い込まれていた。ちょうどその頃、アンジェラ・アキの歌う「手紙_15歳の君へ」という曲が流れていた。確か歌詞の中に、未来の自分に向かって不安の思いを打ち明ける内容だったな。懐かしい・・・。

 

過ぎて行った日々を、客観的に克明に覚えておっくことは難しい。2007年からの3年間ほど、底なしの不安と隣り合わせだったことを思うと、コロナ禍から立ち直りつつ今は、遥かに気が楽で、ポジティブな気持ちで居られる・・・。何とかなる、どうにかできる、必ず乗り切る、そんな思いが心に中に少しずつ溢れている。まぁ油断はできないけどね♬

2023年2月18日土曜日

ホフマン・ジャイエ、ジルの愛したコート・ドール。

 美味しい道産ワインが増えていると思う。特に白ワインにおいては、かなりのレベルに達して来ていると感じる。味わい、香り、うまみ・・・そういったあれこれが、いわゆるテロワールらしさと共に、うまくワインに結実して来ている。

だから、シンプルに美味しい。道産食材との相性ももちろん、素晴らしいフィット感を味わえる。シャープな酸や深いコクがあるわけではないけれども、綺麗で上品な酸や、香り高い葡萄の味わいが、何とも言えない。野菜やほのかに甘みを宿したホタテの稚貝との相性が素晴らしい。

 


道産ワインのレベル向上は目を見張るものがあるものの、赤ワインにおいてはまだまだ発展途上と言わざるを得ません。と言うのも、北海道では日照時間が決定的に足りない。赤ワインの原料となる黒葡萄(ピノノワールとかメルローとか)がしっかり熟すのに、必要な日の光が十分ではない・・・。それでもここ数年(良いこととばかりは言えないけれども)、北海道の夏も結構暑い。黒葡萄が熟すのには、少なからず貢献しているように思う。その影響もあってか、時折楽しむ滝澤ワイナリーや多田ワイナリーのピノノワールは、間違いなくレベルアップしている♬

 


と書いておきながら、ブルゴーニュワインのお話をしたいと思います。今日飲んだワインは、ホフマン・ジャイエのオート・コート・ド・ニュイの赤ワイン。ブルゴーニュの神様、アンリ・ジャイエの遠戚(お父さんのロベール・ジャイエが、アンリの従兄弟)にあたるジャイエ・ジルのワイナリーで、世代交代に当たり(跡継ぎのないジャイエ・ジルは)、ブルゴーニュへの情熱溢れるスイス人アンドレ・ホフマンへとワイナリーを託すことになります。

もともとジルの醸すワインは、しっかりと葡萄を熟成させたうえでやや凝縮感のあるワインとなっている。4~5万円もするエシェゾーに手を出すわけにはいかないけれども、このオート・コート・ド・ニュイも、たっぷりとしたうまみを内包していて、力強い酸とコクが口の中でどこまでも広がる味わいは、ブルゴーニュの赤ワインの真骨頂と言っていいだろう。シャルロパン・パリゾやロシニョール・トラペなんかも近い味わいだったように記憶する。

2018年1月、ジャイエ・ジルは他界(66歳の若さ)。ワインメーカーをホフマンと若きブルゴーニュ人アレクサンドルヴェルネへとバトンを渡しました。

 


ワインはとても深いコクと共に、まかないのイワシのオーヴン焼きに絶妙なバランス。飲んでいて、とてもハッピーな気分に包まれるのです。そして、ジャイエ・ジルが、ホフマンとヴェルネに託した愛すべき、コート・ドールの黄金の丘。ワインを飲むとそのワインにつながるいろいろな物語が脳裏を駆け巡ります。美味しい・・・と思うと同時に、ジャイエ・ジルの愛したワイン畑が、見たこともない僕の頭の片隅に、像を結ぶのです。