2019年11月11日月曜日

美瑛に冬が・・・、でも思いのほか快適です。



季節感が薄れてきて久しい。厳しい夏がいつまでも続き、なかなか秋の爽やかな風が吹かない。でもって台風に悩まされる機会も増え、秋という季節を実感し満喫できる日々がなんだかとても短くなってしまったように思う。
ただし、北海道ではそうでもなくて、今年も秋はしっかり堪能できた。美瑛もしかり。9月下旬の大雪山山系の初雪情報に始まって、だんだん紅葉が山から丘へ降りてきて、落葉松が黄金色に染まるまで2か月近く、秋を楽しむ時間があった。例年通り丘(畑)の豊穣に恵まれて、美味しい野菜たちがテーブルに並ぶのは、本当に嬉しい限りだ。

そんな美瑛の秋も、ある瞬間を境にはっきりと冬へとチャンネルが変わる。初雪と共に秋は終わり、冬がやってくる。雪に覆われた大地には、良くも悪くも秋の余韻はない。40年以上も愛知県で暮らした自分にとって、この初雪即ち冬の到来という劇的な変化は、あわただしくもあるけれども、心がちょっぴりわくわくもする。
10年か15年に1度、あるかわからないけれども、本州でもホワイトクリスマスなる日が、まれに訪れる可能性がある。天気予報でそんな情報が流れても、実際には雪が少し舞う程度で、一面の銀世界になるようなことは40年以上も暮らしたけれども1度もなかったと思う(し、あったらご存知の通り、交通機関は麻痺してしまう)。でも、北海道では多くの地域で真っ白のクリスマスだ。雪がない・・・ということは、温暖化が危惧される昨今においても、ない(たぶん、僕が生きているうちはないともうな。もしあったら農業的には壊滅状態だけど)。とにかく11月に入った頃から雪は降り始めて、11月末か12月早々には根雪になる。

初雪の便りをこうして発信すると(今では多くの人がSNSを使って美瑛の今を発信していますね)、寒さを心配するメッセージを少なからずお受けする。中には北海道を人が住むところではないような場所とお思いの方もいらっしゃる。
自分だって12年前の今頃、果たして無事に初めての冬を乗り越えられるのかどうか不安で仕方がなかった・・・。雪でクルマの運転もままならないし、氷点下10度をはるかに超える(マイナス25℃を下回る日だって10日以上ある)日々の暮らしが、想像すらできなかった。
2007年11月から2008年の3月いっぱい、それは思いのほか快適に過ぎ去った初めての美瑛の冬の生活だった。まず家中を暖かくするから、室内で寒さに凍える心配は全くなかった。さらには氷点下15℃くらいを境に、そこからどれだけ気温が下がっても、体感的にはあまり差が感じられないこと(プラスの方は皆さんご承知の通り25℃と30℃じゃ大違いですし、ましてや30℃と35℃じゃ天と地ほども違いますよね)。そしてなぜか晴れた日はマイナス5℃でも10℃でも外歩いているときに暖かく感じること(愛知県のマイナス2℃の方が絶対寒く感じる!)。でもって、雪に被われた美瑛の丘風景があまりにも綺麗なこと!
大雪に交通マヒすることもあんまりないし、スーパーでは普通に商品が陳列されるし(果物や緑の野菜は、遠路運ばれてくるので少々お高め)、年賀状もばっちり元旦に配達される。

逆に困ったことは何だろう・・・、あ、やっぱりクルマの運転だな。何度かぶつかったりスピンしたり、こすったりしましたよ。でも幸い致命的な事故は起こさなくて済んだし、今はかなり雪道運転にも慣れてきました(雪の降り始めの頃と、春の溶け始めの頃が危ない)。あとは、外出時の準備かなぁ。帽子、マフラー、手袋は絶対必要。防寒具いっぱい身に着けていくから、少々面倒ですし帰って来る時忘れていないか心配(まず、気づきますよ。ないと困るものだから)。

普通の靴をしまい、ブーツや長靴を出すとき。自転車をしまい、除雪用具を用意するとき、
そんなあれこれと一緒に、今年もまた冬の到来をお迎えしています。美瑛の冬、好きだな!

2019年10月29日火曜日

まだここにある「秋」

今年は例年になく秋が長い。北海道の秋と言えば、見る見るうちに過ぎ去ってしまって、気が付けば銀世界・・・というのが僕の持っていたイメージだ。ところが現実に暮らしてみると、そうばかりでもない。四季それぞれに、北海道には北海道の時間がちゃんと刻まれていく。ゆっくりやってくる春も、思いのほか気が早いと感じることもあるし、あっという間に過ぎ去っていく秋が、随分ゆっくり時間をかけて深まっている年もある。

で、今年の秋は本当にゆっくりゆっくりだ。大雪山の初冠雪の便りは例年通り9月下旬にはあったが、ふもとの初雪はどうやら11月を待たないと来ない模様。雨が若干少ないような気がするが、ピンと張りつめたような寒い朝もしばらくはお預けの様なのだ。
そうは言っても北海道の10月末だから、早朝は0℃前後にはなる。マイナス2℃くらいまで下がったこともあるにはあるし、晴れていれば高くても2~3℃くらいまでにはなる。おかげで木々の黄葉は実に見事で、見ごたえがある。
宿屋稼業がなりわいでもあるので、夏はありがたいことにそれなりに忙しいから、風景をめでている暇はない。もちろんここ美瑛の夏の日の朝が美しいことは百も承知だけれども、9月も半ばを過ぎて、朝霧が深く立ち込めるころになるとそわそわする。ちょうどその頃にお客様も一息で、僕自身に景色に勤しむ時間が少しずつ出てくることも関係しているのだろう。たまの休館日(つまりお客様がいない日)の晴れた朝となると、もうじっとはしていられない。こういう時に、つくづく自分は幸せなんだなぁと思う。まさかこの年になってそわそわしたり、わくわくしたりできるとは20年も前には思っていなかった・・・。


今朝もちょうどいい感じで霧が出た。霧が出る日には決まって晴天が待っている。いいお天気の合図のようでもある。しかも霧の日の景色は、見ていて飽きることがない。トマムの雲海テラスに出かけたことは1度もないけれども、美瑛の丘の霧風景は、ちょっとない幻想的で変化にとんだ、素晴らしい景色を拝むことができる。ぼやぼやしていると瞬く間に霧が晴れてしまうから、のんびりしてはいられないのが難点だが、自分の勘を頼りに(ほかに頼れそうなものもないし)あちこち移動しながら景色を見る。
霧の朝のねらい目は二つ。ひとつは白虹(霧虹)で、七色にはならないけれども弓状の円弧が大空を白く彩る。深い霧が晴れていく瞬間に見えることが多く、虹同様に順光側に見える(ので、自分の影が映りこむことが多い)。霧が深すぎても浅すぎても見えないが、深い霧が晴れていく束の間には、ほぼ間違いなく見える。あまり長時間みえているわけではないので、一層大自然の織り成す雄大さを感じてしまう。
もうひとつは霧が低いところにたまっているさまを、高台から見下ろす景色だ。これはまるで谷に白いものがたまっているかのように見えて、そこから丘の上部分が島のように浮かび上がっているようなのだ。このたまり霧風景は少し長い時間見ることができるのだけれども、日の昇る前から霧は出ていて、明るくなると同時に眼前に広がるこの景色もまた、瞬間の美しさに息を飲んでしまう。
とまぁこんなことを追いかけながら、秋の日の朝を忙しく過ごしている。お昼を待たずに眠くなるのでしばし睡魔に負けてしまうのもお決まりだ。


ちなみに今日は午後からも絶景で、棚の奥から久しぶりに70_200ミリのレンズを持ち出した。普段どちらかと言えばやや広角を使うことが多い僕だが、たまにはどうかなぁとダメもとでこの1本も連れ出した。
意外や、100から150ミリくらいの距離が結構いい感じで使えたので、これからしばらく持ち出す機会が増えそうだ。ただしこのレンズ、僕の腕だと少々打率が下がる(いやいや、8割くらい没写真になっちゃってたなぁ、今日は)。それでなくても長めのレンズは手振れしやすいところに、この古いレンズは手振れ補正がない。ちょっと意識しないと、またぞろ手振れ写真の量産をしてしまう。
クルマの運転もそうだけれども、新しい補助機能がいろいろと操作・操舵に介入してきて、最初は「いらんお世話だ」なんて息巻いていたのに、気が付けばすっかりその恩恵に浴している。クルマのバックカメラなんて最たるもので、はじめはうっとうしいくらいに言っていたのに、いまではないと不安で仕方がないのだ。まだマニュアル・シフトのドライヴ・フィールをよしとしているが、何年かしたら「AT以外は無理だ」と言っているかもしれない。


レンズに戻ると、この古いレンズはかれこれ20年近く前に手に入れたものだと思う。当時(つまり2000年頃だと思うけど)僕はそれこそ使い古した1眼レフカメラを引き出しの奥から引っ張り出して、初心者のカメラ教室なるものに1度だけ通ってみたことがあった。あの時写真を撮影するための何かを“学んだ”記憶は残念ながらないのだが、カメラやレンズそのものについては知識がついた。当時僕が持っていたカメラはEOS Kissというちょっぴり恥ずかしいような名前のカメラで、一番初心者向きのカメラだったけれども、マクロレンズやこの70_200を着けると、あっと驚くような写真が撮れたもんだからすっかりカメラメーカーの策に嵌ってしまったことも思い出した。

メモ:
撮影は2019年10月中旬から下旬(28日)
Canon EF70_200 F4L(初期型ゆえ、ISはない)。このレンズ、いちおうまだ現役で新品の購入ができるけれども、断然手振れ補正付きの弟分の方がいいと思うな。


2019年9月25日水曜日

とにかく・・・、頭が下がる。



8月23日、僕が時折更新している当館「四季」のFacebookページにメッセージが入った。台湾の林さんという方から、リクエストをいただいた。何しろ英語の読解力(会話力も)がすぐれているとは言えないので、正確なご要望の機微の部分までは理解できなかったのかもしれないが、要は住み込みで働きたいということだろうと理解した。

8月も下旬になれば、まだ繁忙期の余韻が残るとはいえ、忙しさの波の高さは少し収まってくる頃だ。増してや林さんが希望する9月初旬からのご希望となると、正直来てもらわなくたって、なんとかまわせないことはない。
文面に金銭面の希望(どころか金銭面に関する一切合切)の表記がなかったのだけれども、タダ働きしてもらうつもりはないので、北海道の最低賃金くらいはお支払いしなくちゃいけないなぁなどと考えてみた。あれこれ逡巡しては見たものの、こういうお申し出をお断りする、ということがちょっぴり残念に思うので、とにかく来ていただくことに決めて返事を翌日のうちに出した。
ほどなく返事が来て、9月3日から11月3日までが希望だという。女性で31歳、相変わらず金銭面のことには触れられていないことと、どうしてヤマほどある宿泊施設の中から当館に目星をつけたのかはわからないままだった。

実は似たようなケースは、今までなかったわけではない。中でも4年前にシンガポールからやってきた、フェニックスという娘(当時29歳)も、やはり突然ウチを指名しての来館だった。そもそも当方は、繁忙期にはスタッフ確保に苦戦してはいるものの、求人は出していない(今までも1度も出したことはない)。それなのにフェニックスは(そして今回の林さんも)ヘルパーとして住み込みたい・・・と申し出てくるのだ。
フェニックスは就労ビザがないので、お金はいただくつもりがないと最初に言ってきたので、それこそポケットマネー的に支払った。とにかく彼女は間に合う娘で、機転は利くし覚えは早いし、見目麗しいし、皆に可愛がられる性格美人でもあった。今度の林さんもそうであったらいいなぁ・・・と思いながら、気が付くともう9月3日なっていた。

その日、台湾台北市(400万都市)から、わずか1万人に満たない小さな我が町美瑛町に、彼女はやってきた。大きなスーツケースは、今までに持ったことがないくらいに重い。若い娘が2か月間も暮らそうというんだから、それなりの荷物になっても仕方がないなぁと思いつつ、彼女を部屋に案内した。
彼女が来て、早いものでもう3週間目になる。果たして彼女もフェニックス同様、すごく間に合うスタッフだ。聞けばウチに来る前にトマムのホテルで働いていたというから、多少は鍛えられてはいたのだと思うが、それにしても何をやらせてもソツなくこなすし覚えも早い。これまたフェニックス同様、日本語がほぼできない点が玉に瑕と言えば瑕だけれども、コミュニケーションなんて、取ろうと思えばどうにだってなる。

僕にとっては願ったり叶ったりってことになっちゃうわけだが、彼女からしたらどうなんだろう・・・?31歳と言えば、十分に大人ではあるけれども、世の中を、あるいは人生を知り尽くした、と言えるほどの年齢ではない。増してや言葉の分からない外国に、そして会ったこともない経営者のもとに、女性一人で住み込みで働くというのだ。
たまたまウチには空いている客室があったので使ってもらうことにしたが、場合によったら相部屋で、ということだってあり得たし、そうなったら部屋の同居人との相性だって気になるところだ。考えようによっては「危険がいっぱい潜んでいる」可能性がある中、それを乗り越えて彼女はやって来て、しかも身を粉にしてとてもよく働く。
最近になって分かったことは、彼女は台湾で小学校の先生をしていたということ。さて、僕自身は31歳の頃、どう生きていただろう?会社を辞して飛び出す勇気も野心もなかったし、勤めていた会社のポジション以上にいい待遇の働き先を見つける自信さえなかったように思う。増してや言葉の分からない外国に、一人で飛び出していくなんてありえない話だ。一方彼女は日本の北海道に夢を描き、与えられた仕事は精一杯こなし、時折微笑むけれども、怒ることも悲しむこともない。たまのお休みには自転車で丘へ出かけ、何時間も景色を眺めていたり、スタッフに連れられてスーパーのお菓子の安売りに歓喜してみたりと、どう見ても充実した毎日を送っている。

彼女(やフェニックス)を見ていると、ちょっぴり羨ましくも思うけれども、大いに元気をもらっているのも確かだ。あの頃の僕にはできなかった自分に精一杯生きる、が31歳にして、もうできているのだ。
どうやら彼女は自分の個性を生かしてイラストレーターになりたいようだ。精一杯生きる彼女が、その夢を実現してくれると嬉しい。いや、彼女にしてみたら、そうできない道のりさえも楽しい人生の1ページに違いない。僕には子供がいないんだけれども、娘ほども年の離れた彼女に、正直頭が下がってしまう。でもいいのだ、僕だってこうして、精一杯生きることを学んで今があるんだから・・・。あしたも、がんばろう!

2019年9月21日土曜日

苦い想い出。


まだ35歳くらいだったと思う。僕は、かなり思い上がったビジネスマンで、その日何度目かの商談に臨んでいた。
名古屋に出来る大きなホテルの客室の内装を、営業が請け負ってきて(ビッグ・ビジネスだった、よくやってくださいました)、その値段交渉が山場を迎えていた。何しろ700室に届こうかと言うホテルの客室には、デスクや鏡、ちょっとしたクローゼット、ナイトテーブルにチェストといったたくさんの調度品が必要だった。ベッドこそ他社に持っていかれてしまったけれども、それ以外を押さえた点は営業のクリーンヒットに違いなかった。
少し補足説明をすると、ホテルにはオープンの予定日があるし、これだけの数の客室数の調度品を、それ相応の出来栄えでやりきることのできるメーカーは、数えるくらいしかなかった。増してや営業サイドでウチに決まった物件だ。この時点では、ライバルなしの状況と言えなくもなかった。僕は営業サイドに負けないくらいにクリーンヒットを飛ばそうと、無意識のうちに気負ったに違いない。

いざ、値段交渉のテーブルに着くと、また前回同様の無理難題を、施工を請け負った会社のデザイナーが持ち出してきた。
営業が落としたビジネスには、当然のことながら納期と価格と品質が事細かに決められていた。ただし、仕事を出す側(ホテルに委託された施工業者)と受ける側(こちらが私の所属するメーカー)に、ある程度の裁量を任された部分があった。それがデザインに関することであったし、デザイン次第で使う材料も変わってくるし、材料が変わればコストも変わるという次第だった。
可能な限り素晴らしい出来栄えの商品を、納期通りにお納めする・・・ことが求められていることは百も承知していたけれども、受ける僕たちとしては、コストは押さえたい(すでに価格は決まっているので、コストを抑えれば残る利益は増える)のがホンネだ。
幸いいろいろな細かい打ち合わせで、使う金具だとか色だとか・・・、に関してはこちらの提案を受け入れてもらっていたのだけれども、主材料である木部に関して、どうしても高額な材料をお使いになりたいとおっしゃるのだ。

いくらこちらの提案をほぼほぼ受けてくださっても、主材料にメープルを使えと言われると、こちらの利益は大幅に削られてしまう。まだ経験がそれほどあるとは言えない先方のデザイナーさん(要は若い女性デザイナーなんだけど)の言い分をなるべく説明していただいた結果、単なるデザイナーさんのお好みであることが判明した。
デザイナーたるもの、自身のデザインにお好みを盛り込むのは当然と言えば当然ではある。そこまでは当時のまだ若いガキの僕にもわかっていた。が、このデザイナーさんがお好みなのは、メープルの持つ風合いや性質、そしてメープルと言う木が持つ特徴ではなさそうで、むしろメープルと言う響きにこだわっていらっしゃることが掴めた。
つまり「木」そのものはどうでもいいけれども、メープルと言う名前は譲れないと言うわけだ。そんなへんてこなこだわりに、こちらの利益が半減してしまうのはいくらなんでも理不尽だ。

その日僕は、あるサンプルを携えて、この難題をクリアしようと交渉に臨んでいた。メープルの他にいくつかの木材サンプルを用意し、デザイナーにお選びいただこうと内密に持ち込んだのだ。
あまりぱっとしているとは言えない木目のメープルを、これまたメープルに合っているとは言えない塗装をしたサンプル。そして似たり寄ったりの他の木材を使ったサンプルを3点。もうひとつ、こちらの(と言うよりは僕の)おススメのブナ材のサンプルの5点を、おもむろに取り出してデザイナーに見せた。
いくらデザイナーと言ったって、メープルがどういう木目をしているかくらいはご存知であろうと思いつつ、ブナ材はメープルぽい雰囲気に仕上げておいたのは言うまでもない。

果たしてくだんのデザイナーさんは、こちらが想定していたよりもはるかに「木材」に関してはシロウトで、あまりにもあっけなく僕が用意した代替案のブナを、自信なさげにお選びになった。
思い上がりも甚だしい当時の僕は、勝ち誇ったように、もしかしたら蔑むくらいの勢いで、暗に相手を罵倒するかのような言い方をしていたのだと思う。「ね、こんなことですよ!」と。4回目か何かの商談で、僕は相手をいわば力ずくでねじ伏せて、こちらの思い通りの材料で生産に入る承諾を取り付け、意気揚々と会社に戻り、上司に報告してうきうきと帰宅したように思う。

翌日、午前の時間帯に、僕は上司から個別に呼び出された。もちろんこの一連の商談に関することだった。先方は決まったことを覆すことはしないけれども、今後商談に僕を出してくるなということだった。上司のニュアンスからは、もし可能であればこのビジネスを他社へ乗り換えたい思いが、先方の意向に滲んでいるようでもあった。
もちろん納期等からそれは不可能なので、商談そのものが消えてなくなることはなかったし、僕が取り決めた仕様によって、かなり「いい仕事」として利益が残ることは間違いなかった。
と同時に、僕の会社が失ったものも大きかった。それは「信用」かもしれないし、ビジネスパートナーとしてお選びいただけるかという問いに「ノー」を突き付けられるような商談をしてしまったことだ。

いま、25年くらいも昔のことに思いを馳せて、どうしたら良かったのだろうともう一度考えてみる。まず、先方のデザイナーさんも、僕同様にはじめての(に近い)お仕事で、それなりの実績を残したかったのかもしれない。で、そのシンボルが「メープル」だったのではないだろうか・・・?
とすると、お客様である彼女の顔を立てるために、いくばくかのメープルを要所・要所に配することはできたんだと思う。多くのパーツは僕が提案するブナ材をお使いいただき、客室の「顔」となるところに(例えばチェストの引き出しの板などに)数か所でもメープルを使い込むことで、こちらの利益をあまり落とすことなく、先方の想いも(しょせん木材のことがあんまりお分かりでなかったんだし)叶えられたことだろう。

ひとり勝ちに、いいことなんてあるわけがない。この年になってみると、そう思い知る。お互いに譲れる範囲と言うものが、何にだってある。そこを理解しあいながら、より良い着地点を探すことが必要だ。
それは妥協ではないのか(妥協点を探っているのではないか)、と言われるかもしれないが、そうばかりでもない。お互い譲れる範囲がある程度掴めれば、思い切った第三の着地点に行きつくことだってある。そこを折れてくれるのなら、こんなことができますよ、と言う具合だ。何も相手の言い分をへし折ることばかりがビジネスじゃない。