この1年、たった10記事程度しかブログを更新できませんでした(ごめんなさい、ってあんまりアテにされていないとは思うんですが)。とにかくゴールデン・ウィークが始まる頃からなんとなくそわそわして、「書く」ということに集中できなくなる(大したこと書いているわけでもないのに)。
まがりなりにも宿屋業をなりわいとしている身にとって、繁忙期(と言うものがあること自体、ありがたいことなのです)に向かうシーズンは、決まって準備不足が露呈して、その埋め合わせに予定外の時間を取られたりもする。それに加えて日に日に速度を上げて変わる季節への対応や、ありがたい予約の控えを台帳に整理したりと、けして器用とは言えない僕にとって、ちょっとした固まった文面を仕上げるのはハードルが高い。
他方、書きたいことはけっこうある。それがこちらに来て読んでくださる方の「読みたいモノ」とイコールであるはずがないのだけれども(ニア・イコールであることを願ってはいます)、それでもお伝えしたいようなことは些末なことが多いとはいえ、いっぱい・・・。というわけで、もう少しコンスタントに(頻度高く)ここに書くことができるように、まずは書くことに慣れて行こうと思う。
それで、今回は比較的書くのに難しいことを考えなくてもいい(感覚的に書きやすい)テーマを選んで書き記しておこうと思う。というわけで習作っぽい(って全部習作なんですけどね)感じになっちゃいますがご容赦ください。
で、今回は母の死です。昨年(2016年6月に)父が他界しました。誤嚥(うまく食べ物を飲み込めなくなること)になってから、だんだん弱って行って、静かに死を待っている様な感じだったから、いよいよかな・・・という雰囲気だった。
一方先々週(2017年9月下旬)に天に召された母は、なんの予兆もなく突然に逝ってしまった。死亡診断書に書かれた「心筋梗塞」という4文字が、目に焼き付いた。1年ちょっとの間にたて続けに両親を失くしてしまうのは、もちろん予想だにしなかったこと。悲しいと言えばもちろん悲しいんだけれども、母がいなくなってしまったその事実をうまく消化しきれない自分がいるというのが今の偽らざる気持ちです・・・。
母は、2012年あたりから、認知症が顕在化して来て当時要介護「3」の父とふたりで暮らすのには無理が生じて来ました。母の強い意志もあって、母だけを私のいる北海道へ愛知県から連れて来たのが2014年。まだ雪の残る浅い春、母の居宅をわずかに残った当館「四季」の一角に建てて、母の北海道暮らしが始まったのでした。もちろん3度の食事は私の妻が用意してくれたし、洗濯だって、掃除だって、母がやると言うことはなくなって来ていたし、物忘れのひどくなった母にはどれも難しいことでした。
残念ながら認知症は少しずつ進行し、自分の名前を書くことさえ難しくなってしまう母との暮らしは、毎日見ているがために昨日と同じと感じるものの、1か月前・半年前と比べたら確実に記憶と言う大切な脳の機能が破壊されて行く母がそこにはいたのでした。
私と妻は、少しずつ記憶で保たれていた部分のお行儀と言うかマナーと言うか、そういうことがまともに出来なくなる母に手を焼き、時には無駄と知りながら激しい口調で接したことも少なからずありました。
けれども母が好きな食材を見つければ優先的に購入して食べさせ、最後まで覚えていた唱歌(りんごの唄、みかんの花咲く丘、おぼろ月夜、茶摘みなどでした)を毎日のように一緒に歌い、紙風船を突きながら時間を過ごしたりしました。
2017年夏(7月初旬)、それまで週に4~5回お世話になっていたディ・サービスに、一番の繁忙期の間(体育の日まで)、ショート・ステイ(ロング・ステイというべきか)としてお世話になることで行っていた母。たまに「下着が足りないから持ってきてください」とか何とか言われて施設に行って見ると、感情の高ぶりがあったり無かったりはするものの元気だった母。
9月も下旬になったその日、突然のお客様からのキャンセルで時間のできた私たちは、母を一時帰宅させてもらって一緒に昼食を食べ、紙風船で遊び、唄を歌い、もうすぐ帰って来るんだよと言いながらまた施設に送って行ったのは、9月25日。家内と「帰って来ると大変だね」と悪口を言ったりしていた矢先、翌26日夜7時45分頃、昨日まったくどこにもそんな気配のなかった母が「心肺停止状態ですので・・・」との電話。あわてて、お客様のための料理を出したり食べ終わったお皿を返したりしていたエプロン姿のままで施設に駆け込むと、母は顔面蒼白で、人工呼吸器をつけられて心臓マッサージをしてもらっている真最中。大声で「お母さん」と呼ぶも、「近づき過ぎないでください」と救急隊員の方に言われて(蘇生作業の邪魔になるので)我に返ったのも束の間、午後8時23分に死亡診断書が発行されました。
たぶんまだ5年以上は元気なんじゃないか(脳の記憶領域以外は)と信じていた僕らにとって微塵も想定していない母の死でした。
私は勝手に想像してみます。たぶん母はしばしの間、正気に還ったのだろうと。そして自身のあり様を思って、もうこれ以上生き続けるのはやめようと思ったんじゃないかと・・・。もちろんそんなことはあるはずがないのですが、そう思えてならないのです。
認知症、文字にすればたかが3文字のその病は、少しずつ、でも確実に人となりを壊して行きます。きっと母はその現実を受けとめることが出来なかったのだろうと思えるのです。僕は認知症の母にどのくらい正面から接して、それをしっかり受け止めることが出来たか、と自問すれば、極めて怪しいと言わざるを得ません。
自分自身、母の死とともに「認知症」に対して非常に恐怖心を抱くようになりました。年をとるということは、昨日出来たことが出来なくなること・・・。そしてその中には昨日は記憶出来ていたことが、出来なくなること、も含まれることでしょう。それは実生活の中であちこちに支障が出て来ることと同時に、絶対に忘れたくない大切な想い出を失っていくことでもありますね。そんなことに耐えられるのだろうか、自分は?
いつしか消えてなくなってしまったはずの母が傍らに来て、小さな声で、でもはっきりとささやきます。「今はとにかく精一杯暮らす。それしかないよ」と。
2017年9月26日、夜8時23分。母死去。ありがとう、今になってあらためて母へ感謝する気持ちを噛みしめています。
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